伊那谷楽園紀行(6) 霧の晴れる谷の中へ
しかし、西に向かい、伊那谷を走る飯田線に乗ろうと思ったのは理由がないわけではなかった。ちょうど3月になったばかりで、自分が持っている寝袋では東北や北海道の雪の中で野宿するのは難しい。それに、汽車の本数も少なくて、なかなか遠くへと旅している気持ちを味わうことはできないと思っていた(電化されていても、私の心情的には「汽車」なのだ)。それに、人里離れたところを走る飯田線ならば、途中で野宿することになっても、地元の人に不審な目で見られることも少ないだろうと考えたのだ。 財布に数万円と青春18きっぷを入れ、愛用の折りたたみ自転車を手に、旅は東京駅から始まった。 汽車の旅は、よどみなく進んだ。汽車が終着駅のホームに滑り込むと、また次の汽車へ。それを幾度も繰り返しながら、ふと気まぐれに駅を降りて見知らぬ土地を歩いてみたりして、旅はあてどなく続いた。平日の午後、学校や会社帰りの乗客たちが乗り降りを繰り返しているのを見ていると、自分はどこにも身の置き場のない存在なのだと、身を縮めるしかなかった。 ほっと一息できるのは、日が暮れてから。 公園の東屋だとか、道の駅の軒先で眠る時だった。財布の中身が減っていくのを心配して、朝晩は東京を発つときに買った棒ラーメン。以前、気まぐれに買ったキャンプ用の小さな鍋で煮込んでズルズルと啜る。それとインスタントコーヒー。都会の喧噪を遠く離れて、星を眺めて、これからの人生を考えた。こんな旅をする余裕もない同世代の人々からすると、ぼくは幸せなのかも知れないと思った。
伊那市駅で降りようと思ったのは、そんな旅の数日目だった。まだ肌寒い季節とはいえ、風呂に入っていないことが気になった。電池の残りを気にしながら、携帯電話で検索すると、どうやら伊那市には銭湯があるらしいことがわかった。 初めて降りた、伊那市駅には冷たい雨がふっていた。まず、背中に背負っているバックパックをどうにかしなければならないと思った。キョロキョロとあたりを見回してから、改札にいる駅員に尋ねた。 「コインロッカーはどこですか?」 中年の駅員は、なぜか申し訳なさそうな顔をして、言った。 「……キオスクがあった頃はあったんですけどねえ。この先のバスターミナルにはあるはずですから」 街があれば、無人駅であっても設置されているコインロッカーすらないということは、どういうことだろう。そんなに、この街には魅力がないのだろうかと疑問に思いながら、雨の中、バスターミナルへとぼとぼと歩いた。駅の周辺を見ても、観光案内もなく、どことなくうらぶれた雰囲気だと思った。