伊那谷楽園紀行(6) 霧の晴れる谷の中へ
人工ラドン温泉は、風呂場の中のサッシ戸で仕切られた奥にあった。身体を洗ってから、その湯船に入った。ブクブクと泡の出る湯船は、健康によさそうな感じがした。 先に湯船に入っていた老人に、どこから来たのかと訊ねられ、旅の途中なのだと答えた。諏訪から、週に1度は車でここにやってくるという老人は、親切にこの湯のよさを教えてくれた。 「ワシもあちこちの温泉にいってる。でも、ここのラドンは、ほかのラドンよりも身体が温まる……」 70歳を超えているだろうか。ぼくよりも、ずっと多く人生の経験を積んできたであろう老人の確信に満ちた言葉を聞いて、急に体温が上がったような気がした。そんな、ぼくの姿が嬉しかったのか「よく温まりなさい」と、老人は嬉しそうな顔をして、先に出ていった。 脱衣所で、オレンジジュースを買い求めて身体を冷まし、客が途切れた時を見計らって、番台の老婆に写真を撮ってよいか尋ねた。「どうぞどうぞ」と、怪訝な顔をされることもなかった。決して自分から、あれこれ話そうとはしないけれども、ぼくがどのくらい前から商売をやっているのかなどを尋ねると、嫌がることもなく話してくれた。その会話を通して、この地域には魅力的な歴史の地層があることが見えてきた。
駅に戻り、汽車を待っていると、今度は中年の女性に「どこから来たのか」と声をかけられた。あれこれと世間話をする中で「ローメンが美味しい」というと、ちょっと呆れた顔でこういわれた。 「うちの旦那や息子は、よく食べにいくけど私はちょっとねえ」 それを聞いて、私の探究心のスイッチが入った。てっきり、土地の人にとっての日常的な食べ物かと思っていたのだが、そうではない。性別なのか、個人的なものなのか、好き嫌いのはっきりしている食べ物なのだろうかと。それとも、ある年齢より上の人には、恥ずかしさがあるのだろうかとも。 例えば、牛丼なんかがそれだ。最近は、地方都市でも繁華街に牛丼チェーンが当たり前のように店を出している。でも、60歳より上のあたりの人は、そうしたチェーンだとか、ハンバーガーショップを、こんな風に評する。 「あんなところで食べているのを人に見られたら恥ずかしい」 都会では麻痺して感じることもなくなった感覚。着るものや食べるものは、年齢に応じて相応のものがあるという半ば失われた感覚。そうした、いつの間にか消えてしまった文化が、この街にはまだ続いていると思ったのだ。 それから、また数日。あてどもない旅は続いた。次第に、トンネルの出口が近づいている気がした。それが願望ではないと思ったのは、天竜川を眼下に望むある駅で眠った時だった。