伊那谷楽園紀行(6) 霧の晴れる谷の中へ
伊那市は、すべてが生きたテーマパークのようなところだと思った。数万人の人が、当たり前の日常を送っている街を好奇な目で見るのは失礼かもしれない。 でも、東京から僅か3時間ほどしか離れていない街なのに、東京の繁華街を侵食する凡庸さは、どこにもなかった。どこの地方に出かけても、目立つのはチェーン系の店舗。コンビニに居酒屋。携帯電話ショップ。牛丼屋にファミレス……。どこにいっても、同じ値段と同じ味の安心感。そんなものは、どこにもなかった。古ぼけた蕎麦屋。居酒屋。スナック。やたらレトロな映画館・旭座は、その建物の雰囲気とは裏腹に『ドラえもん』をはじめ、最新の映画を封切っていた。 「ここは、楽しい街だ」 駅前で感じた街の印象は、いつの間にか消え去っていた。あとは、プラスの印象が積み重なっていくばかりだった。 たどり着いた銭湯もそうだった。 正確には、そこは銭湯ではなかった。 人工ラドン温泉 菊の湯 煙突もあり、木造の2階建ての建物は明らかに銭湯そのものなのだが、「うちは銭湯ではなく、人工ラドン温泉なのだ」と強く主張していた。 男湯と書かれたほうの扉を開けて、中に入ると、年季の入った脱衣所には、まだ日中だというのに大勢の客がいた。手ぬぐいだけは持参していたので、料金を払ってから石鹸を求めた。 「置いてないのよね。お客さんが忘れていったのがあるから、帰りに返してね」 番台に座っていた老婆は、ピンク色のケースに入った半分ほどにちびた石鹸を渡してくれた。売っているものは飲み物だけ。銭湯だと当たり前にありそうな石鹸やひげそりの販売などない。おそらく、ぼくのようにフラっとやってくる客などは、年に数人もおらず、常連客だけで回っているのだろうと思った。どこかストイックな感じがして、貴重な体験をしている気分になった。 脱衣所の壁には、人工ラドン温泉の効能について記した書類の入った額が飾られていた。高級そうな紙の書類に記された効能が本当かどうかはわからないが、とにかく試してみたくなった。