「鉄腕アトム」も誤訳された…少し小難しい「危険な誤訳」という話をしよう
カール・マルクスという思想家は、娘たちに「すべてを疑いなさい」と教育したことで知られている。この教えは、いまでもきわめて有効だ。実に疑わしい情報があふれているからである。 【写真】「G7サミット」で“崖っぷち”の岸田首相は日本国代表として何を語ったのか
森鴎外著『沈黙の塔』
今回は、国家権力が海外という外部の思想や価値観の流入を禁止したり、誤魔化しの翻訳をしたりして国民を騙してきたし、いまもそうであるという問題について論じたい。 この問題に日本で最初に懸念を表明したのは森鴎外かもしれない。鴎外の場合、海外からの思想の流入を禁止する動きに反対を表明したのであった。 1910(明治43)年5月から大検挙がはじまった「大逆事件」を目の当たりにして、森鴎外は『沈黙の塔』を『三田文学』(同年11月号)に発表した。 この短編小説において、「パアシイ(Parsi)族」というものが登場する。ゾロアスター教を起源とする一神教宗派の信徒でペルシア人の子孫であるとされる人々、「パーシ人」が仲間うちで「危険な書物を読む奴」を殺し、その死骸をインド中西部の古都の丘の上に建つカラスの飛び回る「沈黙の塔」に運び、カラスに食べさせたという寓話を日本の状況にあてはめて書いたものである。 外国語を通じて、外部から内部にとって危険な思想が入ってくるのを防ぐために、「危険なる洋書を読むものを殺せ」となることについて、鴎外とおぼしき人物はつぎのように記している。 「芸術も学問も、パアシイ族の因襲の目からは、危険に見えるはずである。なぜというに、どこの国、いつの世でも、新しい道を歩いて行く人の背後には、必ず反動者の群がいて隙を窺っている。そしてある機会に起って迫害を加える。ただ口実だけが国により時代によって変る。危険なる洋書もその口実に過ぎないのであった」 なお、この小説を、日本に公費留学していた魯迅(ろ・じん)は中国語に翻訳している。魯迅は、実在する中国人官僚、周樹人のペンネームの一つであり、彼もまた鴎外と似た境遇に置かれていた。鴎外はドイツ、魯迅は日本という外部から自国をながめることで、自国を批判する視角をもちえたが、日本も中国も当時の政権はそうした外部の視点を弾圧したのである。 いずれにしても、国家が不都合な情報を抹殺しようとすることは、いまでもつづいていると考えたほうがいいだろう。露骨な発禁はできないにしても、補助金の打ち切り(「あいちトリエンナーレ二〇一九」への補助金不交付)や任命拒否(日本学術会議会員の任命拒否)など、主権国家は自らの主権に不都合な情報などを弾圧する。