「小学生の頃、両親と三人で交換日記をしていた」女優の南沢奈央が明かす日記の思い出…“誰のために書くか”に向き合えたきっかけを綴る
日記の読書日記
日記は人に読まれたくないものだ。ずっとそう思ってきた。 むかしから、日々あったことを書くことは好きで、小学生の頃、両親と三人で交換日記をしていた。そのドラえもんのノートは未だに残っていて、つい先日実家の片づけをしていたときに見返したのだが、もはや日記というよりも、両親への手紙に近かった。「パパ、しごと、がんばってね」とか「ママ、またいっしょにあそぼうね」とか、伝えたい対象が明確だった。相手がいる中で書く、それこそが交換日記なのだと思う。 誰にも見せられないような、個人的な日記を書き始めたのは高学年になった頃だった。鍵付きのノートに、学校であったこと、友達のこと、塾のこと、好きな子のことなど、人に話せない心の内を書いた。毎日ではなく、書きたいことがあるときに書いた。中学、高校とそれは続いていたと思う。大学に入ってからは形を変えて、三行日記を綴った。これらは、わたしが死んだときには、絶対に中を読まずに一緒に燃やしてくれと本気で思っている。 自分が書いた言葉が、文章が、誰にも読まれないでいい、むしろ読まれたくないと思って書けていたのは、これが最後だったかもしれない。やがて、書く仕事をさせてもらうようになり、文章を書く上で自分の内側と向き合う時間が増え、日記はいつの間にかふわっと書くのをやめてしまった。思ったこと、残しておきたいことはメモに取る程度になってしまった。 それがこの秋、日記を書く仕事が来た。岐阜県可児市に滞在しながらの舞台制作の様子を書いてほしい、という話だった。日記を書くことはできると思う。だけど、それを誰かに読まれるという前提で書けるのだろうかと懸念していた。きっと、日記という形をとるならば、ちゃんとした文章になってはいけない。というか、表現などを気にしていては、あっという間に疲れてしまうはず、毎日書き続けられるわけがない。なるべく、言葉を整理しない。読者を意識しない。思ったままに――。余計なことを書いてしまうかもしれないという心配はあったが、それは掲載される前の原稿チェックで削ればいいだけのこと。そう自分に言い聞かせて、読者の目を捨てて約2か月間書き続けた。 その日記が、新潮社の文芸雑誌「波」の11月号・12月号に前篇・後篇に分けて掲載された。当初の予定よりもだいぶ分量が多くなってしまい、ページ数も増やしていただいたが、その上でカットされた部分も多かった。いつもだったら原稿の分量調整は自分で行うが、今回は担当の編集の方に丸投げをした。自分で編集してしまったら、それはもう日記ではなくなってしまうような気がしたのだ。 ただ、人にカットされたらされたで、その原稿を見たときに「カットされるわたしの日常……」と思った。赤線を引いて消されているのを見て、なんだか泣いてしまいそうになって、ちゃんと確認することができなかった。ページ数も限られているし、編集も仕事なのだから致し方のないことだ。それでも日記の編集というのは、いやな仕事だっただろうなと思う。今度お会いしたら、「お疲れさまでした」と直接感謝を伝えたい。