「読む幸福」とは、まさにこのこと…!芥川賞作家・井戸川射子の「圧倒的な才能」を読む
『この世の喜びよ』
子どもの目に映る世界を見せてくれる「ここはとても速い川」に対し、母親の目に映る世界を見せてくれるのが「この世の喜びよ」。芥川賞受賞作でもあり、2024年10月に文庫版が発売されたばかりだ。 主人公は、娘ふたりの子育てがほとんど終わった穂賀さん。娘たちが幼い頃によく一緒に行ったショッピングセンターの喪服売り場で働いている。ある日、ショッピングセンターのフードコートに通う15歳の少女と親しくなる。 この作品が特徴的なのは、「私」でも「穂賀」でも「彼女」でもなく、「あなた」という二人称が用いられていることだ。井戸川さんは、自身の育児体験も踏まえ、誰かに見守られている感覚を表現したかったのかもしれない、と話していた。 育児中の母親ではなく、育児をほぼ終えた母親の日常。直接経験したことがないのに、なぜかこの作品を読んでいると、「知ってる!」「懐かしい」という気持ちになることが多々ある。それは「あなた」という呼びかけによって、読者も一緒にこの物語の世界を包み込むような視点に立たされるからなのだろうか。 ショッピングセンターで出会った少女は、妊娠中の母親の代わりに、1歳の弟の育児を押し付けられている。「自分が変な顔になってきちゃってんのが分かるよ。胸の中のが出ちゃうよね、全部顔に。寝ろよって、怒鳴ったらお母さんに聞こえるだろうし」と育児の辛さを愚痴る。穂賀さんはアドバイスや慰めはするけれど、子育て中のことを不幸だったとは語らない。 ショッピングセンターを歩き回り、少女と話し、未来を見るのではなく、度々過去を振り返る。「流れるバックミュージックを頼りに、あなたはここでなら目を閉じていても歩ける」。子どもという生き物との生活によって、染みついた癖が、たくさんあるようだ。振り返りたくなる過去があることは、なんと幸せなことか。 大人になってからの人間が何によって作られ、何に支えられて生きていくのか。大きくなった娘ふたりを前に「あなた」は頷く。「二人の目にはきっと、あなたの知らない景色が広がっている。(…)こうして分からなかった言葉があっても、聞き返さないようになっていく」。前を見ろとはよく言われるけれど、時に、後ろを振り返ることが人生の味方をしてくれることがあるのかもしれない。