中日・落合監督の“非情采配”に賛否 日本シリーズ「まさかの交代劇」から5年後に起きた歓喜の瞬間
中日OBの星野仙一氏は「続投させるべきだった」
かつてないほどの異様な雰囲気のなか、「人生で最大のプレッシャー」を感じてリリーフのマウンドに上がった岩瀬は「自分のやることだけをやろう。絶対に抑えてやろう」と腹を括ると、金子誠を空振り三振、高橋信二を左飛、小谷野栄一を二ゴロに打ち取り、シリーズ史上初の完全試合を継投で達成。この瞬間、中日の1954年以来53年ぶり日本一も決まった。 試合後、落合博満監督には当然のように「なぜ山井を代えたか?」の質問が集中した。1対0というスコアを考えると、個人記録よりチームの勝利を最優先するのはやむを得なかったし、落合監督も「幸か不幸か、山井は一杯一杯だった。交代させる分には抵抗はなかった。指にマメもできていた」と説明した。 だが、この非情とも言うべき采配をめぐり、中日OBの星野仙一氏、楽天・野村克也監督は続投を主張し、ソフトバンク・王貞治監督、元西武監督・森祇晶氏は落合采配を支持と、野球関係者の間でも意見は真っ二つに分かれた。 当の山井は「個人記録はどうでもいい。頑張ってきた岩瀬さんに投げてほしいと思った」とコメントしたが、自身をそう納得させるまでには、当然心の葛藤があった。 話は山井が7回まで投げ終えた時点に遡る。すでに右手の異常に気づいていた森コーチは、落合監督に「山井はもしかしたら終わりかもしれませんよ」と報告し、岩瀬にいつでも行けるよう準備させていた。山井が続投して完全試合を達成する可能性もあったが、万一記録が途切れたときのことを考えると、チームの勝利のために万全の手を打つ必要があった。
5年7か月後の快挙
「1人でもランナーを出してしまってから岩瀬に代えたら、絶対に抑えられるという確信が持てなかった。(中略)逆転負けという流れで、札幌に行ったら、たぶん日本一になれない」(自著「参謀」 講談社文庫)。 それでも本人が「投げたい」と言えば、その意思を尊重させてやりたかった森コーチは、山井が8回も3人で抑えてベンチに戻ってくると、「(9回は)どうする?」と尋ねた。 一度は「行けます」と答えた山井だったが、すぐに思い直し、「岩瀬さんでお願いします」と自ら交代を申し出たという。 結果的にこの継投は成功し、中日の日本一達成とともに、山井の9回交代劇も長く語り継がれることになった。 その後、山井は2010年8月18日の巨人戦でも、8回まで無安打無失点に抑えながら、9回の先頭打者・坂本勇人に本塁打を浴び、無念のノーノー未遂。「やっぱり8回までしか持ちませんでした」と自重気味にコメントした。 だが、2013年6月28日のDeNA戦で、遂にNPB史上77人目(88度目)のノーヒットノーランを達成。神戸弘陵高時代の練習試合で9回2死、プロ入り後も2004年のウエスタン、近鉄戦で9回1死から安打を許し、「(ノーノーに)縁がないのかな」とあきらめかけていた35歳の右腕は「野球をやり始めて、初めてのノーヒットノーラン」を「本当に信じられない。嬉しいしかない」と最高の笑顔を見せた。 あの日本シリーズから5年7ヵ月余りの月日が流れていた。 久保田龍雄(くぼた・たつお) 1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。 デイリー新潮編集部
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