「モテた偉人・恋に奔放だった偉人ランキング」トップ3、個性的すぎる日本史人物の意外な恋愛エピソード
■ 30歳年下との不倫に情熱を燃やした男、金子光晴(「恋に奔放」ランキング2位) 歌人が恋の和歌を詠めば、詩人は情熱的な言葉で口説く。金子光晴はこう口説いた。 「好きだ。好きだから、世の中にウソをついていこう。それを持続する鍵は世間を欺いていくことだ」 不穏な雰囲気がするのは、不倫の恋だったからだ。しかも、このとき光晴が53歳で、相手の大川内令子は23歳。30歳もの年下の愛人を光晴は「ウサギ」と呼んで、79歳で死去するまで、くっついたり離れたりを繰り返している。 ただ、光晴は妻の三千代と「新しい相手ができたら、遠慮なくお互いに別れる」という条件で結婚しており、三千代も光晴以外の男性とたびたび恋に落ちた。奔放な二人だったが、相手の心が離れれば、嫉妬や悲しみの感情も見せている。夫婦関係もいろいろだ。
■ 道長をぎゃふんと言わせた和泉式部(「恋に奔放」ランキング1位) 和泉式部は、平安時代の中期に活躍したことはわかっているが、生没年も本名も明らかではない。 「和泉式部」の名は、夫の官職から取られたものだ。夫は和泉国守を務めた橘道貞である。結婚後、和泉式部は小式部内侍という娘を産む。そのときに人からこう聞かれたという。 「父親は誰に決めましたか」 そう、和泉式部は恋多き女だった。小式部が生まれた翌年には、冷泉天皇の第三皇子にあたる為尊親王との恋愛がスタート。夫の道貞とは離婚し、さらに父からも勘当されて見放されてしまう。為尊親王が病死するという不幸に見舞われると、今度は為尊親王の弟・敦道親王とも恋仲になるという奔放ぶりだ。 敦道親王が死去すると、宮仕えした和泉式部だったが、その後もモテ人生は続いたらしい。平安中期の貴族・藤原保昌から一目ぼれされたときには、こう伝えたという。 「紫宸殿の梅を折ってきてくれたら、結婚しましょう」 紫宸殿とは帝のいるところで、そこの庭から梅の木を折って盗んでこいというのだ。諦めろといわれているに等しいが、恋は盲目だ。藤原保昌は盗みを実行。警備に弓を射られながらもミッションを成功させ、彼女と結婚できたという。 和泉式部といえば、『小倉百人一首』に収録されている次の和歌が有名だ。 「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの あふこともがな」 現代語訳は「わたしはもうすぐ死んでしまうでしょう。わたしのあの世への思い出になるように、せめてもう一度だけあなたにお会いしたいものです」。こんな和歌も詠んだ。 「こえもせむ こさずもあらむ 逢坂の 関もりならぬ 人なとがめそ」 背景としては、ある人が和泉式部からもらった扇を持っていると、藤原道長がそれを見て、「浮かれ女の扇」と書きつけた。道長は和泉式部の恋愛体質をからかったわけだが、それを知って和泉式部が詠んだのがこの作品だ。現代語訳にすると、次のようになる。 「男と女の逢瀬の関を越える者もいれば、越えない者だっている。恋の道は人それぞれなのに、あんたにとがめられる覚えはありません」 痛快な和歌で、道長をぎゃふんと言わせた和泉式部。これはモテるはずだ。