ベストセラー書籍『ユニクロ』が紐解く、地方商店街の紳士服店だったユニクロが強烈に成長し続ける理由
■ SPAという最初の内なる変革 杉本:香港に視察に行った柳井さんは、ジョルダーノというブランドの店で一枚のポロシャツを見つけます。それが、当時の為替レートでおよそ1500円だった。 柳井さんは自分の店のポロシャツに自信を持っていた。ところが、どれだけ安くしても1900円以下にはできなかった。なのに、なぜこの店では1500円にできるのか。しかも品がいい。柳井さんは驚愕しました。 柳井さんは香港のジョルダーノの経営者であるジミー・ライさんに会いに行き、なぜそんなことができるのかと問いました。ライさんは、自分たちで服のデザインをして、中国政府から逃れてきた繊維工場に生産を委託して、できた商品をすべて買い取るSPA(製造小売り)と呼ばれる方式でやっていると明かしました。 柳井さんはすかさずSPAを取り入れます。自分の会社の社員を香港に送り込み、組めそうな工場を探した。なかなかいい工場が見つからず、500工場くらい回って、ようやく10くらいの工場を見つけたそうです。そこからユニクロによるSPAがスタートしました。 手書きで仕様書を書いて送る。そうすると、思っていたのと違う商品が届く。それを改善する。しばらくは、その繰り返しだったようです。そのようにして、自分たちの意図する服を作ってもらい、それをすべて引き取るやり方を少しずつ確立していったのです。 最初の金の鉱脈(カジュアルウェアの倉庫)を見つけるまでに12年かかったのに、わずか2年後には、プライベートブランド方式にフルモデルチェンジした。ユニクロはその後もいくつも内なる変革を遂げていくのですが、これが最初の内なる変革だったと思います。 ──「それまでも僕は努力してきた。でも、たいして成長がなかった。それはなぜか。行き先を決めていなかったからです」という柳井さんの言葉がとても響きました。 杉本:この部分は、インタビューしながら「なるほど」と私も思った部分でした。1991年頃、ユニクロを23店舗にした時に、柳井さんは「30店舗も店を出したら、もう大成功だろう」と想像していたそうです。 ところがある時、アメリカの国際電話電信会社(ITT)という会社の社長兼最高経営責任者(CEO)だったハロルド・ジェニーン氏の書いた『プロフェッショナルマネジャー』という本に出合いました。この本を読んで、柳井さんはガツンと頭を打たれるような衝撃を受けたそうです。 この本の中で、ジェニーン氏は「経営というものは積み上げではない」と書いています。先にゴールを決めて、そのゴールに至るためにできうる限りのことを考え出す。そうしないと、人と違ったゴールには行けない。だから「現実の延長線上にゴールを置くな」といった考え方を展開していました。 当時の柳井さんは「今日よりも良い明日のための改善」という意識で努力していた。これだと、今日の延長線上に明日がある。しかし、それではダメで、最初にゴールを決めなければならない。では、ゴールをどこに設定すべきか。柳井さんは「世界一のアパレル企業をつくる」というゴールを設定しました。 当時、ファーストリテイリング社の前身にあたる小郡商事が持っていた店の数は23店舗です。東京にも大阪にもまだ店はありません。その段階から世界一を目指すのです。「世界一を目指す」と口で言うのは簡単ですが、言うだけではダメです。 世界一になるためには、そこから逆算して、いつまでに何をしなければならないのか。いつまでに日本一にならないといけないのか。それぞれのゴールにたどり着くためには、何をしなければならないのか。それを考える。 23店舗から、毎年30店舗ずつ店を増やして「まずは3年で100店舗にする」と決めました。周囲の人たちからすれば「社長ちょっと待ってくださいよ」と思わず言いたくなりますよね(笑)。