新型コロナ問題で見えてきた「集合」に安心する日本人の姿
メンバーシップとリーダーシップ
テレワークや、オンライン会議が有効にはたらく企業はいいが、人が集まることによって仕事が成立する企業は大変だろう。 逆にいうと、日本は世界に比べ、インターネットを有効に利用する社会への転換に遅れた感がある。工業化が深く進み、社会制度と国民感情が固定化する傾向があったのではないか。 歴史上、社会システムがあまりにも成熟し、細分化し、複雑化すると、大きなパラダイム転換が起きたときに、機敏に適応できないということが起きる。ベテランが新参者に道を譲り、老大国が新興国に置いていかれる現象だ。 今回の新型コロナウイルスに対する政府の対応を振り返れば、前例(依拠する法律)のないことはできない、人権を言い訳にして強い対応をしない、全体を統括する機関がない、外国への配慮を優先する、あわてて法律をつくるなど、後手後手にまわった感があり、断固たる決断ができているとはいい難い。福島第一原子力発電所の事故のときと同様である。国民は粛々と行動したが、政府は右往左往。つまりメンバーシップ(集団の一員という意識)は強いが、リーダーシップは弱い社会である。それも「集合の安心」ではないか。 また地震や洪水や土砂崩れの危険があるとき、学校の体育館に集まることで安心するのもどうだろうか。建築の専門家から見ると、体育館は中に柱を建てられないので大きくスパン(柱と柱の距離)を飛ばしていて、安全度が高いとも言い切れないのだ。ガランとしているので、一挙に多人数を収容しやすく、野戦病院的な使い方には向いているが、あくまで臨時の避難場所と考えるべきだ。避難行動そのものの危険も考えると、最終的には個人の挑戦によって命を守ることも必要だ。 平時における危機感の欠如と、機に臨んでのコントロール能力の欠如は、戦後、アメリカの戦力の下で、すなわち非自主的に、平和と繁栄が続いてきたことにもよるのだろう。しかし現在の政権はそれを払拭して危機に強い国にすることがウリだったはずだ。その期待が裏切られるとなると、検事長の定年延長や森友学園の文書改竄など、強引な官邸主導による官僚モラルの崩壊という、この政権の負の部分が大きく感じられる。長いあいだの「一強」からくる仲間主義という「小さな集合」の安心に浸かっていたのかもしれない。むしろ北海道や大阪の若い知事の決断に好感がもてた。