新型コロナ問題で見えてきた「集合」に安心する日本人の姿
学問は孤独の親友
首相の要請によって全国一斉に学校を休みにしたことで、卒業式や期末試験ができないことが報道された。今は入学式が問題だという。しかしそんなことより、教育に支障が出ることの対策はどうあるべきかだ。僕は式典というものがあまり好きではないが、いわゆるイベントというものも、社会にとってどうしても必要とはいえないものがたくさんある。 たまたま上海在住の中学生と小学生の子供をもつ弟子からメールがあった。よく知っている子供たちだから「『こういうときこそ勉強しなさい』といってくれ」と返信したら「子供はいうことを聞きません」と返ってきた。そりゃそうだろう。しかしそのあと「オンライン授業でしっかりやってます」というメールがきた。中国は常に現実的に対応するようだ。 考えてみれば学校に行くことばかりが教育ではない。本を読むのはもちろん、自然の観察、書くこと、描くこと、音楽や映画の鑑賞でも勉強になる。むしろ現在の詰め込み教育より深みのある勉強のチャンスかもしれない。学校に行かないと安心できないというのも、教育における「集合の安心」ではないか。 僕らの世代には大学紛争という経験がある。 学部の終わりから大学院の初めのころ、大学がバリケード封鎖されていたので、学生は入れるが教官は入れない。もちろん講義はできない。設計者になるべきか、研究者になるべきかで悩んでいた僕は、やたらに本を読んだ。専門書ではなく、哲学や評論であったから、それが勉強とは考えず、結局、ヨーロッパへのヒッチハイクという無鉄砲な行為につながったので、偉そうなことはいえない。 こういうときにこそ、といって論文を書きまくった助教授(現在の准教授)もいた。日ごろは大学の雑用に追われて研究に打ち込めないのだ。彼はまもなく教授になった。福沢諭吉は、上野に立てこもった彰義隊に対する大砲の音の中でも、講義を止めなかったという。むしろそういう、社会が真空状態のような時こそ、勉強にも、研究にも打ち込め、思索が深まるのではないか。歴史上の偉人、特に学者、宗教家、思想家には、若いときに、深い孤独の時期を過ごした人が多い。学問は孤独の親友だ。本来の教育は「集合の安心」より「個人の挑戦」に萌芽する。