新型コロナ問題で見えてきた「集合」に安心する日本人の姿
「家社会」における「集合の安心」
テレワークなどが進まない理由として、日本では、人と同じ場所にいないと仕事をした気分になれないということがあるのではないか。 それは「仕事をする」というより、会社という「家」に「勤める」という感覚だ。「勤める」には、ワーク(働く)やレイバー(労働)といった言葉とは違うニュアンスがある。よくいわれるように日本人は、有給休暇があっても取らない、上司が残っていれば仕事がなくても帰らない、会社のために家族と自分はガマンするといった傾向がある。つまり目的は「仕事をする」ことより「勤める」ことなのだ。 僕は『「家」と「やど」―建築からの文化論』(朝日新聞社刊)という本を書いて以来、日本は「家社会」であると論じてきたが、その「家」の意味は、現代の「住宅」ではなく江戸時代の「藩」の意味に近い。 日本はそれぞれ会社や役所という「家」に「勤める」ことによって成り立っているのだ。「家」に集まり「家」の成員として奉仕するのであり、「家」にいるかぎり「公」も「私」も制限される。「家」とは「公」と「私」のあいだの何ものかである。 同じ場所に集合することによって、なんとなく仕事をしているという安心感が生まれる。つまり「集合の安心」だ。とはいえ、ただ集合してボーッとしていては具合が悪いので、絶えず会議する人もいれば、絶えず電話する人もいれば、絶えずメールする人もいる。会議、電話、メール。それらはすべて「集合の安心」につながっている。 今はそれどころではないが、長い目で見れば、新型ウイルスへの対応が、日本社会の変化すべき方向性を示唆していると考えることもできる。「勤める」ことより「仕事をする」ことを重視する社会への転換、「集合の安心」より「個人の挑戦」を重視する文化への転換である。
欧米型「個人の挑戦」にも弱点がある
欧米型の社会は「集合の安心」より「個人の挑戦」を優先する傾向にあり、その傾向は近代化とともに強くなって、世界に広がってきた。 しかし今回、その欧米で新型コロナウィルスの拡大が続いているのはどういうわけだろう。「個人の挑戦」を優先する社会に生きる人々は基本的に孤独である。人々は他者との良好な関係を求めて、握手、ハグ、会話、触れ合いの機会が多くなる。そこに感染の原因があるのかもしれない。もう一つ考えられるのは、政府のリーダーシップは強いが、国民のメンバーシップは弱いという点。悪くいえばバラバラだ。その弱さが出たのかもしれない。また、日本のように健康保険、医療体制がととのっていないこと、さらに国民の人種構成が多様であることもあるかもしれない。 だがそれよりも、氾濫する川のように、一度決壊すると止めようがないということだろうか。日本は決壊寸前という見方もできるから油断すべきではない。 つまり欧米型の社会にも欠点はあるのだ。今後日本は、長所を守りながら欠点を克服する、すなわち「集合の安心」より「個人の挑戦」を重視し、メンバーシップを維持しながら、リーダーシップを強化するということが望ましい。 新型コロナウイルスの広がりは、先が見えないので誰もが心配だ。生命も心配だが経済も心配だ。しかし世の中には心配して考えれば前に進むことと、いくら心配しても、いくら考えても、堂々巡りで前に進まないことがある。前に進むことに集中して考える方がいいようだ。つまり自分にできるだけのことをするほかはない。 経済の落ち込みだけでなく、政治的な問題も取り沙汰されているが、人類の敵を前にして一時休戦とはいかないものか。今はこのウイルスの感染拡大を防ぐことに集中すべきだ。