7浪の末、54歳で医師に!3児の子育てをしながら、それでも医師になった思いとは。
「暗い歴史しかない」医学生時代。3度目の挑戦で医師国家試験に合格
医学部での新生活は1年目こそ順調だった。同期の友人もできた。 「子どもがいる学生っていないからみんな面白がってくれました。一緒にご飯に行き、子どもたちとも仲良くしてくれていましたね」 しかし2年生のときに太ももに腫瘍が見つかり、手術をすることに。 「良性と悪性のあいだの境界悪性でした。でも実は悪性だったんじゃないかって心配で勉強に集中できなくて。幸い、後遺症や再発もなく過ごせています」 次男の出産も重なり、最終的には学年末の総合試験で留年してしまう。この時は恥ずかしさのあまり、同期に会わないよう裏門からキャンパスに入るなどしてしまっていたという。 家庭では、島根から来て住み込みでサポートしてくれた母親や、途中で転職して合流してくれた夫の存在があったものの、家事と3人の育児、勉学の両立は過酷を極めた。 「朝4時に起きて勉強して、7時半とか8時には子供を保育園に預けて。授業が終わるのが夕方の4時くらいだから、そこから少し勉強して7時に子供を保育園に迎えに行って、9時に寝かしつけた後は24時間空いている大学の自習室で12時まで勉強していました。授業が終わっても、そこからまた新たな仕事のような時間が始まる感覚で、お風呂にゆっくり浸かったりテレビを観たり、そういうゆったりとした時間はまったくなかったです。休日に子どもを遊園地や公園に連れて行くときも必ずテキストを持って、隙を見つけては読んでいました。プライベートで一人になれる時間はないし、とにかくお盆も年末年始もありませんでした。ずっと寝不足でしたね」 また新開さんが頭を抱えたのがお金の問題だ。入学金の720万円に始まり、毎年の年間授業料が600万円と学費がかさみにかさんだ。 「お金をかき集めるのがもうすごく大変でした。必死だったのでキャバクラで働こうとしたこともありましたよ。お店に電話をしたら年齢を聞かれたので『42歳です』って答えたら『は!?』って(笑)『待ってください!42歳ですけど周りからはそう見えないって言われるんです!1回会ってください!』って食い下がったんですけど、ガチャン!(笑)学費は家庭教師のアルバイトや、全国のいろいろな奨学金で賄いました。卒業までに借りた金額は全部で7700万円になりましたね。今は1/3ほど返済できたでしょうか」 試験前になると、どこが出題されるのか教授陣に聞いて回った。 「再試験になったらどこがダメで落ちたのかも聞いたり、受かるためならもう何でも徹底的にやりました」 一方で、家事育児に加えて膨大な勉強量へのストレスから、様々な精神的不調にも苦しめられた。レシートや消しゴムのカス、髪の毛にいたるまで自分が出したあらゆるゴミをすべて持ち帰らないと気が済まない強迫観念にとらわれたり、アルコール依存症や眠れなくなり睡眠薬も効かなくなる“睡眠剤地獄”にも陥った。最終的にはうつ状態にもなった。 「だからもう暗い歴史しかないですよ、医学部の時代は。受験生のときもつらかったけど、医学生のときの方がもっとつらかったです」 これらの症状はカウンセリングや大学内の精神科を受診することで克服していった。また大事な試験ほどアガってしまって問題が解けなくなってしまう悩みも、受験生時代から変わらず続いていた。 「これがすごくネックになって、何年も悩みました。試験前になると吐き気も止まらなくなって、私の吐き気が始まると主人も子どもたちも『あ、試験がもうすぐだね』って言うくらい。自分がどうかなってしまいそうなほどつらかった。アガらないための本を読んだりもしましたが、試験へのこの強い苦手意識は、小中学生の頃に『お前はダメだ!』と言われ続けたトラウマからでした。これは催眠療法を受けることでだいぶ改善されてはいきました」 大学は2度目の卒業試験で卒業。医師国家試験も3度目の受験で合格した。 32歳で医師への挑戦を始めて22年、54歳で遂に医師免許を手に入れた。家族でささやかなお祝いをした。