7浪の末、54歳で医師に!3児の子育てをしながら、それでも医師になった思いとは。
医師としての現在
新開さんは医師免許取得後、婦人科や産婦人科、いくつかの医療機関での勤務を経て、現在は名古屋大学病院で総合診療科の専門医になるための研修課程にいる。総合診療科とは、特定の臓器ではなく文字通り全身を総合的に診る診療科で、その専門医資格も2018年度より新設された新しい分野だ。 「とても画期的な診療科だと思います。他の科でわからなかった患者さんもたくさん来ますし、難しい病気も多いです。全身を診るということは、私が今まであまりやってこなかった内科的なことも含めて、幅広く対処できるようにならないといけないので、すごく勉強にもなります」 加えて土日には訪問診療業務にも従事している。訪問診療では高齢者や終末期患者のケアをすることも多い。 「患者さんやご家族のニーズを探りながら、ただ治療だけをするのではなくできる限り寄り添うことで、どんなときもその方なりの希望が持てるように支えていけたらと思って診療に当たっています」 ほぼ休みの無い忙しい毎日だが、それでも患者と接する日々は何よりも充実しているとも話してくれた。 もう一つ新開さんが今関心を抱いているのが脳脊髄液減少症の治療だ。低脳髄液圧症候群とも言われ、脳や脊髄を浮かべている髄液という体液が漏れ出ることで、頭痛、めまい、吐き気、全身の倦怠感、記憶障害といった様々な不調を引き起こす疾患だ。まだ医学的に解明されていない部分も多く、患者は国内に数十万人いるとされる。 「この病気の有効な治療法になり得るかもしれないブラッドパッチ療法というのがあります」 ブラッドパッチ療法とは、髄液が漏れ出ている箇所を患者自身の血液で塞ぐ治療法である。穴を血液(ブラッド)で、補修(パッチ)するということだ。2016年に保険適用がなされたものの、実施している医療機関や医師はまだ少ない。いずれはこの治療法にも携わることができたらと展望を描いている。
「高校生まで経験した絶望は、医師になってようやく救い出せた」
新開さんは医師になるまでの道のりを振り返り、こんな複雑な思いも口にしていた。 「20年以上かかることがもし分かっていたとしたら、やっていなかったと思いますよ」 しかしそう言いながらも諦めきれず、医師を目指し続けた半生を聞いていると、新開さんにとって医師になることは“あこがれ続けた長年の夢”以上の意味を持っているように感じられてくる。 訪問診療の様子を語っている中で、こんなことを言っていた。 「こうやって医師の資格を持たせてもらって、私が来たことで、救われている人がいる。そのことによって、私に医師という役割を果たさせてもらえているという意味で、私自身も救われているんだと思います」 また、こうも語っている。 「私が高校生まで島根で経験した絶望は、私が医師になってようやく救い出せたし、今それが私の何よりの喜びでもあります」 新開さんは島根にいた頃、学校では劣等感を募らせ、家庭では愛情に飢え、その結果「存在価値が見出されなくて、生まれてきた意味がわからなくなった」という。 医師になることは、その苦しみを解消しきれないまま心のどこかで引きずり続けてしまっていた新開さん自身を、救うための戦いだったのではないだろうか。 実は、小学校の卒業文集に「将来の夢は医者」と書いている。幼い頃の夏祭りでの出来事から32歳で決断するまでの期間は、胸にずっとしまっていたその思いに向けて、傷付いた自身を奮い立たせ、決意を固めるために必要な時間だったように思えてくる。 そして医師になった今、患者を治療し、救うという行為の一つ一つが、かつて生まれてきた意味がわからなくなっていた新開さんに、人生で担う役割を気付かせてくれ、癒し、救い、肯定し続けてくれているのだろう。