7浪の末、54歳で医師に!3児の子育てをしながら、それでも医師になった思いとは。
試験の休み時間に搾乳も。子育てをしながら7浪を経て医学部に合格
医学部受験に向けて最初に始めたのは、大嫌いで仕方なかった数学を中学1年生レベルからやり直すことだった。 「女性の先生が一人で経営している小さな数学塾で、先生自作のプリントを使って問題を解いていくことを繰り返しました」 数学塾には薬局の手伝いを続けながら2年間通い、2年目には並行して松江市内の予備校にも通い始めた。ここで後に夫となる11歳年下の前島充雅(みつまさ)さんに出会う。充雅さんは横浜国立大学数学科を中退し、新開さんと同じように医学部を目指していた。そんな充雅さんに新開さんが数学を教えてもらおうと近付いたことがきっかけで交際が始まった。 その翌年、充雅さんが進路を変更して九州大学工学部に合格したのを機に、新開さんが34歳のときに結婚。2人で福岡に移った。新開さんは医学部受験を続けながら35歳のときに妊娠。重いつわりで体重が5kg減り、5ヶ月の入院の末に36歳で長女を出産した。 「女性としてやっぱり子どもを産みたかったです。実はその前の年に流産していましたし、年齢的なこともあって、受験をしているからと言って出産を先延ばしにはできませんでした」 受験勉強に加え、夫や母親に協力してもらいながらの育児も始まった。予備校近くの保育園に預けた長女のもとへ、講義の合間には授乳にも駆け付けた。 「授乳期って胸がパーン!って張ってきてものすごく痛いんです。試験本番の最中でも張ってくるし、痛くて集中できなくて休み時間にトイレで搾乳もしました。終わって出たら行列になってるんですよ(笑)。みんなに『何やってんのこの人は!?長いなぁ』って白い目で見られて(笑)もう『すみません…』という感じでトイレから出ましたね」 大学を卒業して北海道勤務になった充雅さんについていき、苫小牧で受験生をしていた頃にはこのようなことがあった。 「ベビーカーで長女を連れて外出していたとき、都内の医学部の翌日必着の願書を本屋で見つけました。郵送していたら間に合わない。でも直接持って行ったら間に合うかもしれない。実はそのとき長男もお腹にいたのですが、長女を連れたままその足で新千歳空港に向かい、羽田行きの最終便に飛び乗って何とかギリギリで願書を提出しました」 それでも不合格の日々は続いた。試験になるとアガってしまい、頭が真っ白になって解ける問題が解けなくなったり、問題用紙のページを飛ばしてしまったり、周りの受験生の鉛筆の音が過剰に気になり、集中できなくなってしまうことにも悩まされたからだ。5浪目になると精神的に不安定にもなった。 「主婦でもなく働いているわけでもない。いつまでも社会的なポジションが無い自分は何者なのかと感じて不安でした」 受験を続けていく中で、なぜ落ちたのか釈然としない大学もあったそうだ。 「一次試験に受かって、二次試験も上手くいったはずなのに落ちたり。手ごたえがあって、自己採点でも点数が足りているのに不合格になったところもありました」 後に複数の医学部で女性や多浪の受験生を対象に不当に減点するなどの調整をしていた問題が発覚している。新開さんは「もしかしたらその影響もあったのかもしれない」と振り返る。願書を見つけて羽田行きに飛び乗ったのも、当時からその噂を耳にしており、1年でも早く受かりたいと焦っていたからだ。 そんなとき、愛知県にある藤田保健衛生大学(現・藤田医科大学)医学部に、新開さんより高齢で受かった男性の合格体験記を読んだ。出版社に連絡をしてその男性とコンタクトを取った。 「その人が『藤田は高齢の学生も多いから採ってくれるよ』と教えてくれました。それで藤田を受けてみることにしたんです」 すでに7浪目に突入していた。 「今年ダメだったらもう諦めよう」そう考えていた中、遂にその藤田保健衛生大学の合格を、20倍の倍率をくぐり抜けて勝ち取る。 「予備校に合格を報告したら講師もスタッフもみんなすごくビックリして『おめでとう!やったね!』じゃなくて『え!?そんなことある!?』みたいな。誰も受かると思っていなかったんですよね(笑)」 浪人を繰り返す新開さんに、講師陣は教えながらも、合格は無理だろうと内心感じていたのだ。しかし、この医学部合格が後にその中の一人の講師の未来をも変えることになる。 40歳の春、新開さんは夫を単身で北海道に残し、子ども2人と大学の近くに引っ越して医学生になった。