7浪の末、54歳で医師に!3児の子育てをしながら、それでも医師になった思いとは。
父親の死をきっかけに医学の道へ
短大卒業後はレナウンに就職し、海外事業部で輸入業務に携わった。3年後には日本航空に転職し、羽田空港でグランドスタッフとして働く。しかしその一方で、20歳頃から食べ物を口に入れるのが怖くなり、徐々に摂食障害に苦しむようになっていた。食べては吐きを繰り返して体重が15キロ近く落ちたこともあり、人間関係にも悩み、限界を感じて25歳で島根の実家に戻った。 「一度自分自身を見つめ直して立て直さないといけないと思いました」 そして26歳のときに、母親の薬局を手伝いながら島根大学教育学部に入学して心理学を学び始め、臨床心理士を目指した。大学3~4年時には精神科で、ギャンブル中毒やアルコール中毒、摂食障害など生きづらさを抱えた人たちが集まって共感し合い、振り返りをしていくセルフミーティングを主催するようになる。学びを進める中で、新開さんは自分自身も癒されていくのを感じた。 「私の抱えていたトラブルは、幼少期の『母親に愛されていない』という寂しさが根本の原因だとわかってきました。同時に、母親は決して私を愛していなかったわけではなかったんだと、母親の愛情に気付くこともできました」 一方で臨床心理士の限界も知った。 「臨床心理士は医師と患者さんの間に立つポジションだけど、患者さんからいろいろ情報を聞いてこういうやり方の方がいいんじゃないかと思っても、主導権は医師が握っているので結局自分で治療方針は立てられない。それに摂食障害の場合は過酷なものになると、脳が萎縮したりして生命の維持も危なくなります。臨床心理士は心を診るスペシャリストですが、そうなると心だけを診ているわけにもいかないのに、身体のことは知識が無いから全然わからないんです。もどかしさがすごくあって、自分が思う医療をするには医師になった方がいいんじゃないかと思うようになりました」 だが周りはいい顔をしなかった。 「10人くらいに相談しましたが、ほぼ全員に反対されましたね。『今から医者になるなんて。もっと他にやることがあるよね?』と言う人もいました」 そんな中、応援してくれた数少ないうちの一人に父親がいた。父親は離婚後、同じ町内で中華料理店を営んでおり、新開さんは父親の店もときどき手伝っていた。ある日、その父親の店が2日間閉まったままだと、近所の酒屋の従業員から連絡を受ける。新開さんは合鍵を持って急いで駆け付けた。 「扉を開けると父が厨房で倒れていて、息をしていないことは誰が見ても明らかでした」 警察は自殺との判断だった。 「父は母と離婚後に別の人と再婚したものの、また離婚して一人でした。糖尿病を患っていて入院していた時期もあって、ふらつきがあるともよく訴えていましたが、私はあまり取り合っていなかったんです。後からわかったのですが、いろいろなところから借金までして、お金に困っている知人に配って回るようなこともしていました。きっと父は寂しくて誰かと繋がりたかったんだと思います。亡くなる数日前に私が薬局の配達でお店の前を自転車で通ったときも、外で立っていた父に『寄って行けよ』と言われたのに『忙しいから後でね』とあしらってしまっていました。あのとき行っていたらという思いは今でもすごくあります。優しい言葉をかけていたら違ったのかなって」 新開さんの医師への思いに、周りが反対しても味方をしてくれた父親に寄り添うことができず、救えなかった。体調が悪くなっていることにも気付いていたのに…強い後悔の気持ちが湧いた。 そして、新開さんは医師になることを決意する。32歳のときだった。