「16歳で将棋の稽古料…麻雀クラブと生ビールに」51歳で死去“元天才少年”の壮絶人生「俺はもう名人になれないのか…」“自爆敗戦”に涙した日
中原には「天才少年にありがちな傲慢さがなかった」
1958年の春に10歳の少年が宮城県から上京し、高柳八段の自宅で内弟子生活を始めた。天才少年の呼び声が高い中原誠(現十六世名人)だった。芹沢は中原の指導役を師匠に頼まれた。 中原は新婚の芹沢が住むアパートに日曜日の10時に訪れると、指導対局を受けた。芹沢はたまの休日は読書をしたかった。さっさと負かして早く帰したいと思った。しかし対局が終わると、中原は駒をすぐに並べ直した。 「もう一局お願いします」 そんなことを何回も繰り返し、夜になっても勝つまでは帰らなかった。 芹沢は伯楽として、棋士の才能を推し量る観察眼に秀でていた。少年時代の中原についてはこう評している。 「対局態度が落ち着いていて、天才少年にありがちな傲慢さがなかった。棋力は大したことはないが、スケールの大きい表現力と、読みが正確なのが印象に残った」 芹沢が毎週日曜日に中原を鍛えた猛稽古は、およそ2年も続いた。芹沢が授けた将棋理論は中原の血肉となり、後年の大名人の誕生につながった。
「俺は名人にもうなれないのか…」涙した日
芹沢は62年度のA級順位戦の最終戦を4勝5敗で迎えた。対戦相手は同成績の塚田正夫永世九段で、敗者がB級1組に降級する深刻な一番だった。芹沢は前日に愛知県で競輪に興じ、当日の朝に名古屋から東京の将棋会館に行った。 「そんなことで勝てるわけがない」 と自嘲したが、勝つ気はもともとなかったのだ。 当時の将棋界には、名人経験者の塚田九段をA級から落としてはいけない、という不文律があったようだ。芹沢はそんな事情を大先輩の棋士に諭されて「自爆」に及んだのだろう。 芹沢は「1年後には戻ってくるさ」と強がったそうだが、目標とした名人への道から挫折した。行きつけの酒場では「俺は名人にもうなれないのか……」と言って号泣したという。 A級棋士へのチャンスは、7年後の69年度にも訪れた。その最終局では中原、米長邦雄八段らとの関わりもあった。しかしその大一番で芹沢は、大きな失意を味わうこととなる。 「俺は勝負師に向いていない……」 〈つづく〉
(「将棋PRESS」田丸昇 = 文)
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