「16歳で将棋の稽古料…麻雀クラブと生ビールに」51歳で死去“元天才少年”の壮絶人生「俺はもう名人になれないのか…」“自爆敗戦”に涙した日
未成年だったけど麻雀クラブ、生ビールを
芹沢は1950年に上京し、高柳八段の目黒区の自宅で内弟子生活を送った。奨励会(棋士養成機関)には同年に6級で入会した。師匠は渋谷・道玄坂に将棋道場を開いていた。芹沢は中学から下校すると、道場で師範代として客たちに指導し、時には小遣いをもらった。それを元手に渋谷で映画を何本も見たり、中学の友人たちに焼き芋などをおごった。 二段に昇段した16歳の頃には、将棋を愛好した推理小説家の高木彬光や薬品会社の社長に出張指導した。高額の稽古料を得ると、麻雀クラブに連日のように出入りしたり、酒場で生ビールをあおった。大人びた姿だったので、未成年に見られなかったという。奔放に過ごして深夜に帰ることもあり、玄関が閉められていると、風呂場の小窓の鍵を外して侵入した。 師匠の高柳は、内弟子の分際で遊び回っている芹沢の素行に、うすうす気が付いていたようだが、将棋の成績さえ良ければと大目に見ていた。 芹沢は1955年に四段に昇段し、19歳で棋士になった。それを機に師匠の家を出て、東京・東中野にアパートを借りた。後年に刊行したエッセー集には、《もう自由である。小鷲は天に放たれたのだ。賭博、酒、女にと励んだ。先輩棋士には新橋でキャバレー道を学んだ。新宿二丁目や花園神社の界隈でも遊んだ》という内容の記述がある。
勝てば対局料が…不純な動機でもA級に昇進
芹沢は遊ぶ金が必要となり、公式戦の対局で必死に指した。持ち時間をフルに使い、深夜の12時頃になると負ける気がしなかったという。体力もあふれていた。勝てば対局が増え、対局料がそれだけ入ってくる。不純な動機だったが、将棋に打ち込んだことで、棋士のランクの根幹である「順位戦」でも昇進を重ねた。 芹沢は1956年度の順位戦から参加した。2期目の57年度は12勝3敗でC級1組へ昇級。58年度は10勝2敗でB級2組へ昇級。59年度は10勝2敗でB級1組へ昇級。60年度は10勝1敗でA級に昇級。 芹沢は順位戦で4期連続昇級した俊英ぶりで、トップのA級に躍進した。本格的な居飛車党で棋理に明るく、スケールの大きさに特徴があった。いつしか名人候補と嘱望され、本人もそれを目指していた。61年度のA級順位戦では5勝4敗の成績を挙げた。 芹沢は22歳のとき、1歳年下の内山和子さんと結婚した。芹沢が10代の頃から出入りしていた麻雀クラブの経営者の娘だった。当初は口をきいたこともなかったが、いつしか交際に発展したという。
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