メディアレップ「CCI」「DAC」の誕生とインターネット広告市場の幕開け[第2部 - 第9話]
1996年夏、デジタルガレージから入社の打診を受けて
佐藤:第6話で触れた通り、僕は1995年の後半頃からデジタルガレージに本格的に出入りするようになりました。デジタルガレージはソフトバンクよりも早くYahoo!を日本に持ってくる話を進めていたのですが、孫正義氏に土壇場で持っていかれてしまい、その代わりに当時としては先進的なロボット型検索エンジン「Infoseek」を日本に導入しようとしていました。僕もよくその構想を聞かせてもらっていましたね。そして1996年10月、デジタルガレージは米インフォシーク社と業務提携をし、日本での事業を開始しました。
佐藤:1996年の夏頃、当時東銀座にあった旭通信社オフィスの近くで、デジタルガレージ代表の林さん、日銀出身のCFOの中村さんの3名で昼食をとりました。その際に、「デジタルガレージに正式に入社してくれないか」と打診されました。 とはいえ、当時はまだ世の中的に、インターネットについて知っている人が少ない時期です。伸び盛りの東証一部上場企業を辞めてまで取り組む価値があるのだろうか、と悩みました。当時38歳で若くもなく、転職が初めてだったこともあり、かなり迷いましたね。 第7話で紹介したメディアプランニングの仕事にも面白みを感じていたので、このまま旭通信社に残ってその道を究めたい気持ちもありました。その一方、もっと若い年齢でエキスパートになっている人も多く、出遅れ感があるな、とも感じていました。
デジタルガレージでは、日銀を辞めて新聞にも取り上げられた中村さんが「上場するぞ」と息巻いていました。当時としては異例中の異例の転職ですね。そして、伊藤穰一がインターネットの未来について熱く語っており、エコシスのバイリンガルの若き外国人エンジニアは目を輝かせながら働いている。それがとてもまぶしく見えて、熟慮の結果、僕はデジタルガレージに入社することを決意しました。
1996年10月、デジタルガレージに正式に入社 12月、デジタル・アドバタイジング・コンソーシアム株式会社設立
佐藤:デジタルガレージからの入社の打診には、前述のCCIの設立も大きく影響していたと思います。 博報堂や旭通信社など、電通以外の広告代理店からすると、ソフトバンクと電通が組んで広告枠を全部押さえられてしまったら、インターネットの入口が独占されてしまうという危機感がありました。そこで、Yahoo! JAPANの対抗馬である「Infoseek」を擁するデジタルガレージや、自社コンテンツのマルチチャネル化を推進していた徳間書店を加え、デジタル・アドバタイジング・コンソーシアム株式会社(以下DAC)を設立。CCIに対抗しようという動きが進められました。 僕がデジタルガレージから入社を打診されたのは、Infoseekのサービスを日本で展開する上で、広告ビジネスとインターネットの両方がわかる人が欲しかったからではないかと思います。 こうした経緯で、僕は1996年10月に正式にデジタルガレージに入社し、Infoseekの広告ビジネスを含む事業全般を担当することになりました。バナー広告(画像形式の広告。現在はディスプレイ広告と呼ぶことが一般的)は、米国の雑誌『WIRED』のウェブサイトに掲載されているのを見ていたので、どのようなものを作ればいいのかは想像がついていました。