叔父が中国大陸で戦死、一番下の妹も…草笛光子(91)が、疎開先での日々を振り返る「戦争は絶対ダメ」〈あれから80年〉
戦争にまつわる一番の思い出は、食べる物がなかったことです。 昭和19年8月、私は国民学校の5年生でした。住んでいた横浜の斎藤分町でも空襲がひどくなったので、学童疎開をすることになりました。といっても行き先は同じ横浜市内で、小机にある三会寺というお寺です。 【写真】この記事の写真を見る(4枚) 祖母が何度か、会長をしていた婦人会の用事があるような顔をして、会いに来てくれました。「光子ちゃん」とこっそり呼ばれてお堂の裏にある墓地へ行くと、「早く食べなさい」と言っておむすびをくれます。 お墓に隠れて、夢中で食べました。お寺で出された食事はまったく覚えていないのに、あのおむすびの味は忘れません。具も海苔もなかったと思いますけれど、お米が満足にない頃ですから、美味しくてね。「食べた? 大丈夫? じゃあ、もう行きなさい」と背中を押され、素知らぬ顔してみんなのいる場所へ戻って行きました。
家族で群馬へ縁故疎開
私は引っ込み思案な性格で、他人と一緒に生活ができる子ではありませんでした。広いお堂に大勢で布団を敷いて雑魚寝するのが、辛くてたまりません。家まで歩けば一時間ほどだし、何とかして帰りたい。でも逃げ出して連れ戻された級友を見ていましたから、一計を案じました。先生のところへ行って「体温計を貸してください」と頼み、はあ~っと息をかけたり擦ったりして温め、「熱が出ました」と理由をこしらえて、ようやく帰してもらったのです。 両親は「光子は学童疎開に向かない」と考え、家族で縁故疎開しようと決まりました。仕事がある父だけ横浜の家に残り、祖母、母、私、2人の妹、弟とで、群馬の高崎へ。さらに富岡へ移りました。 富岡で間借りしたのは、炭屋さんのひと間です。商家の広い玄関を入ると土間があって、上がり框を上がった部屋に、家族6人が布団を敷いて寝ました。その奥の部屋に、おじいちゃんとおばあちゃんの大家さん夫婦が暮らしていました。
わずかなお米や野菜に変わった母の着物
土間の障子を閉めても、ノミが跳んで上がってきます。灯火管制があるので、白いシーツの一部分だけ明るくなったところへピョンピョン集まるノミを捕まえて潰すのが、寝る前の日課でした。 お隣は足袋屋さんで、おばさんがミシンを踏む姿が通りから見えていました。富岡駅へ向かう道の途中には、小さな劇場がありました。活動写真がかかったり、ドサ回りの一座が歌舞伎を上演したりしていて、小さい弟をおぶって何度も観に行ったものです。といっても切符が買えないので、すき間から覗いただけですが、小さな楽しみでした。 食べる物で唯一の楽しみだったのが、「おかき」です。あれはお米だと思いますが、水で溶いて小さく丸めてから伸ばして、囲炉裏の横へ置いて焼くのです。お煎餅みたいに硬くないし、ぺちゃんこです。あんこも何も入っていないのに、「今日はおかき焼くの? まぁ嬉しい」と子どもたちは飛び上がったものです。 けれども毎日の食べ物には、苦労していました。お味噌汁を作って、粉から捏(こ)ねたすいとんを入れられる日は、まだいいほう。母は、箪笥から着物を1枚ずつ取り出して出かけ、わずかなお米や野菜を手にして帰って来ました。私は祖母と留守番でしたが、子ども心にも苦労がわかって、とても気の毒でした。 4歳下の妹(編集部注・女優の冨田恵子さん)は、母に手を引かれてついて行ったそうです。どこかの畑で農家の奥さんに向かって、母が「こんな物ですけど」と着物を取り出すたび、「ウチは要らないわよ」とか「ちょっと地味ねえ」とか言い返されるのを横で見ていて、悲しく悔しかったと言います。嫌で仕方ないけれど、その着物がお米に替わると思えば「買ってください」と念じるほかなかったと。