心が渇いた時にはいつも音楽が薬になった――サザンオールスターズ・原 由子が、桑田佳祐とともに歩んだ音楽人生
初めてリードボーカルをとった「私はピアノ」
サザンオールスターズは音楽コンテストで注目を浴び、78年にメジャーデビューを果たす。 「プロになるなんて夢にも思わなかった。自分が人前で何か演じるなんて考えたこともなかったし。でも桑田に相談したら、『上を見たらきりがない。みんなで一緒にうまくなっていけばいいんだよ』と励まされて。じゃあ、学生時代の思い出に一枚レコードが出せれば、という気持ちでデビューしました」 メンバーで女性は原一人。それなりの苦労もあった。 「テレビ出演の時の控室にも困ってしまって。昔は控室が男性用と女性用の大部屋に分かれていたんですが、女性控室に行くと、テレビでしか見たことのなかった方たちがそろっていらして。芸能界のしきたりも分からないし、一人だけ離れるのが不安で、ほとんど男性控室でメンバーと一緒にいましたね。それで、一人でトイレに行って着替えたり。当時はまだ女性スタッフも全くいなかったんです」 「人気が出てきた頃、中高生の女性ファンの中にちょっと過激な子がいて。メンバーとテレビ局から出てくると『あんたなんかどっか行きなさいよ』と突き飛ばされたこともありました。ちょっと傷ついたけどメンバーのみんながいつも守ってくれたし、桑田が『絶対気にすんなよ』と言葉をかけてくれましたね」
80年、「私はピアノ」という曲で初めてリードボーカルをとった。きっかけはやはり桑田からの「歌ってみなよ」というひと言だった。 「最初は恐る恐るでしたが、歌えば歌うほど楽しくなっていった」 リードボーカルの才能を開花させると、81年、サザンのメンバーから初のソロデビューを果たす。プロデュースは桑田が手がけた。 「私は自分で『曲を作りたい』とか『ソロデビューしたい』といった発想がなくて。思えば、私はいつも桑田に背中を押されて新しいことに取り組んできたんですね」
引退を考えたことも。子育て中は音楽が心の薬に
2人は82年に結婚。85年のサザンのアルバム『KAMAKURA』のレコーディング時、お腹に第一子を授かっていた原は、自宅のベッドで横になったまま「鎌倉物語」という曲の歌入れに臨んでいる。桑田と共に愛した鎌倉の恋物語への強いこだわりがあった。 「絶対安静の状態だったけど、この曲だけはどうしても歌いたかった。お腹に力を入れなかったおかげで、いつもよりソフトな歌声になりました(笑)」 母になって感じたのは「大切にしたいものが増えた」という変化だった。 「子どもだけじゃなく、社会情勢とか、地球環境とか、急にさまざまなことに興味が湧きました」 とはいえ育児をしながらの活動は容易ではなく、この頃、彼女は1年半ほど全く楽器に触れなかった。 「ふと、引退してもいいかな?と考える時もありましたね。もう十分楽しんだし、いつ辞めても悔いはなかったし」