「ユーミンの奴隷」になっても好きなものを信じる――時代とともに、松任谷由実の歩んだ50年
今年、松任谷由実はデビュー50周年を迎えた。高度経済成長期に少女期を過ごし、学生運動が世間を揺るがす頃にデビュー。80年代には自立する女性像を描いて女性たちの支持を集め、以降、さまざまなブームを牽引した。世に送り出した曲は600曲を超え、シングル・アルバムの総売上枚数は4000万枚以上。50年の間にはプレッシャーや心身の不調に苦しんだ時期もあったという。世の中がどう変わろうとも、届けたいものとは。(取材・文:内田正樹/撮影:玉川竜/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部/文中敬称略)
中学生の頃に作った曲で作家デビュー
「50年なんて吹けば飛ぶようなものだなって思います」。そうさばさばと言ってユーミンは笑顔を見せる。 1972年の荒井由実名義でのデビューから今日までに発表されたナンバーは436曲。80年代後半から90年代後半にかけてのオリジナルアルバムは10作連続でミリオンを売り上げ、他者への提供曲も含めると600曲以上を世に送り出してきた。「最もプレッシャーを感じた時期は?」と問うと、静かにこう答えた。 「苦しくなかった時はない。『天国のドア』(90年)というアルバムで売り上げがピークを迎えた頃も、世の中に持ち上げられるところまで持ち上げられて、あとは落ちるのみだという恐怖感があった。苦しいのは今も同じです」
高度経済成長期に突入する一方、戦後の闇市の名残もまだ見られた1954年の東京・八王子市。大店呉服屋の次女として生まれた。 「エンタメ好きな母の影響で、幼い頃から歌舞伎や映画などいろんなジャンルのものに連れていかれました」 幼少期の写真に、後の大器の片鱗が写っていた。 「3歳ぐらいの頃に撮られた『屋上でマンボを踊る由実』という一枚があって。まだおむつ姿なのに(笑)。根っからのエンタメ体質だったみたい。店の従業員にコンチネンタルタンゴが好きなお姉さんがいて、影響されたりもしていましたね」
中学に入るとソングライティングを始めた。 「教会のパイプオルガンの音色に衝撃を受けたり、イギリスのプロコル・ハルムの『青い影』という曲を知ったりした頃でした。『私にも作れるかも』と思い、暇さえあれば学校のピアノ室に入り浸っていた。13歳の時に曲を作り始めて、14歳で『そのまま』という曲を初めて形にしました」 この頃の曲が業界人の耳に留まり、ザ・タイガースを脱退した加橋かつみのソロシングル「愛は突然に…」(71年)の作曲を担当する。こうして作家デビューを果たしたユーミンは音楽出版社・アルファミュージックと専属作家第1号の契約を結び、72年7月、アーティストとしてデビューを飾った。時は学生運動や革命を志す者たちの事件が世間を騒がせていた頃だった。 「デビュー前に美大の受験があって絵の勉強をしていると、テレビからあさま山荘事件(72年2月)の中継が流れてきた。衝撃的でした。自分のことで手いっぱいだったけど、学生運動といい、新しい時代に突入していく予兆を感じました。今も香港や台湾の人たちの様子を見ると、日本にもこうして闘った人たちがいたのだと当時を思い出します」