日本人が「知ってはいけない」、日本とアメリカの「本当の関係」…日本の戦後史最大の「謎と闇」
朝鮮戦争を逆手にとったダレス
そんな状況のなかで、突如、朝鮮戦争が起こってしまった。 ふつうに考えたら、日本を独立させることなど、もう絶対に不可能なわけです。そんなことを軍部が許すはずがありません。 ところがそのとき、持ち前の豪腕で事態を急転させたのが、日米安保体制の産みの親となるジョン・フォスター・ダレスでした。 わずか2ヵ月前に国務省の顧問に就任したばかりで、朝鮮戦争の開戦時にちょうど日本を訪問中だったダレスは、この朝鮮戦争を逆手にとって軍部に日本の独立を認めさせるという荒業を、みごとに成功させるのです。 そのとき軍部の説得のための有力な材料として使われたのが、先ほど紹介したマッカーサーの「6・23メモ」でした。 「中国とソ連が加担したこの大戦争に勝利するには、隣国である日本の戦争協力がどうしても必要です。日本の独立に賛成してもらえれば、必ずそのひきかえとして、日本に全面的な戦争協力を約束させます。このメモを見てください。以前は日本の独立後の米軍駐留に反対されていたマッカーサー元帥も、現在は日本全土を基地として使い続けるという構想を持っておられます」 というのが、ダレスのロジックだったのです。 このダレスの粘り強い説得工作が成功した結果、軍部もようやく納得し、朝鮮戦争の開戦から2ヵ月半後の1950年9月8日には、 ○ アメリカは日本中のどこにでも、必要な期間、必要なだけの軍隊をおく権利を獲得する。 ○ 軍事上の問題については平和条約から切り離した別の二ヵ国協定〔のちの旧安保条約〕をつくり、その原案は国務省と国防省が共同で作成する〔つまり、軍部が中心となって作成する〕。 といった基本方針を条件に、対日平和条約の交渉の開始が、トルーマン大統領によって承認されることになったのです。
「6・23メモ」の謎
突如起こった朝鮮戦争という大きなマイナスを、逆に暗礁にのりあげていた対日平和条約を動かすためのプラスの力として利用する──。人間としての好き嫌いは別にして、ダレスというのは本当に仕事のできるスゴ腕の男だったと思います。 しかし、そこにはどう考えても腑に落ちない点があるのです。というのはマッカーサーもダレスも朝鮮半島で戦争が起こるとは、6月25日の当日までまったく考えていませんでした。ダレスなどは開戦の一週間前に韓国にわたり、38度線も視察したあと、日本に戻った6月21日に、 「現在、朝鮮半島には、差しせまった危険はありません」 と報告していたくらいだったのです。 そうした状況のなかで、どうしてマッカーサーが開戦わずか2日前の6月23日に、その後、軍部への説得材料になるような、「日本全土を米軍の潜在的基地にする」という、従来の方針を180度転換した報告書(メモ)を書くことができたのでしょうか。 そのタイミングと内容が、あまりにも不自然なのです。 そう疑問に思ってもう一度、ネット上でアメリカ国務省が公開している「6・23メモ」の原文をみてみると、そこには脚注として次のように書かれていました。 「このメモは、本資料集に収録されていない6月29日のアリソン氏〔当時、国務省の北東アジア局長で、ダレスの東京訪問の同行者〕のメモに、4番目の添付資料としてファイルされていたものです」 つまり、この資料集(『アメリカ外交文書(FRUS)』)を編纂しているアメリカ国務省歴史課のスタッフは、 「このメモがその日付どおり6月23日に書かれたものだと証言しているのは、ダレス氏とその部下のアリソン氏だけです」 という事実をわざわざ教えてくれているのです。 ですから、この問題について歴史的に確定した事実をまとめると次の4点になります。 (1) このマッカーサーのメモが6月23日に書かれたと証言しているのは、ダレスとその部下のアリソンだけである。 (2)マッカーサーはこの「6・23メモ」に書かれた内容について、前日の6月22日だけでなく、実は朝鮮戦争の起きた翌日の26日にもダレスと会談をしていた(後出のダレスの「6・30メモ」についての「解説」(→244ページ)と、リチャード・B・フィン著『マッカーサーと吉田茂』同文書院インターナショナル参照)。 (3) 「6・23メモ」の内容は「日本全土を潜在的米軍基地にする」など、それまでのマッカーサーの方針を極端なかたちで180度転換するものだった。 (4)ダレスは6月25日の朝鮮戦争の開戦後、軍部を説得する有力な材料としてこの「6・23メモ」を使い続けた。 これらの事実を総合すると、常識的に考えてこの「6・23メモ」が、朝鮮戦争の開戦前の会談(23日)ではなく、開戦後の会談(26日)をもとに、マッカーサーとダレスの共同作業によって作られたものであることは確実です。 つまり、ダレスが朝鮮戦争の勃発を受けて、新たな「対日方針」を急遽作成した。けれどもプライドの高いマッカーサーの体面を保つために、メモの日付をごまかして、その180度の大方針転換が、すでに朝鮮戦争の開戦前に行われていたことにしてやったということです。 ここでどうして私が、これほどひとつの報告書の日付にこだわったかというと、この「6・23メモ」という報告書が、文字どおり日本の命運を決したもうひとつの非常に重要な報告書と、セットで書かれたものであることがわかっているからです。 その報告書の名を「6・30メモ」といいます。こちらはマッカーサーではなくダレス自身の名で、彼が日本訪問から帰国したあと、「6・23メモ」の内容について解説したものです。そしてそこには日本の「戦後史の謎」を解くための、最後のカギが隠されていたのです。