「マウントを取る道具」として広まる歪な論文信仰 専門家は「思考と責任」の便利な外注先ではない
舟津:「エビデンス出せ」「この論文だ」と言って、まさに知識の外注をしているわけですよね。それに対してすごく違和感があったんです。で、私は、論文ではないですけどひとまずは本を出したのでモバイルプランナーの専門家を名乗ってもいいのでしょうかね(笑)。 與那覇:確かに、次に依頼が来たら使えそうですよね(苦笑)。 舟津:そうなんですよ。ただ、それって本当に専門家なのかっていう。実は私の本は、書店さんによって置いてあるコーナーが全然違うんです。何の専門家が書いたかわからないような本になっている部分がある。
與那覇:おっしゃるとおり、もし自分が書店員だったら「若者論」「大学」「ネット社会」「就活」……あたりで配架を迷いますね。著者の専門的には「経営学」でも、あえて「社会学」の棚のほうが売れるかも、とか。 舟津:ある本屋では「日本」というコーナーに置かれていました(笑)。逆に、日本社会の話をしているっていう中身をちゃんと読んでいただいたんだろうなと思って。そんな中で、例えばAmazonレビューを見ると、「この本は面白い箇所もあるんだけども、根拠が無い。教授であるならば何かひとつ論文でも書いて数値を出してくれたほうが信憑性があるのかなと」といったコメントがついていました。
與那覇:私も大昔に『中国化する日本』(2011年)を出したとき言われました。巻末に200冊近く参考文献を挙げているのに、「一般ウケを狙ってこんな本を書く人が専門家とは思えない。歴史学者なら、専門の論文で勝負すべき」とか(笑)。じゃあ聞くけど、あなたは一般書の助けなしで、そうした論文を読めるんですか? としか。 舟津:そうなんですよ。絶対に論文を読まない人が、はっきり言うと読めない人が、学者は論文を書いて数値を示せと言う。不思議なのは、そうした専門家信仰や論文信仰の前提として、中身そのものを読まないからこそ欲しがっているという側面です。