「マウントを取る道具」として広まる歪な論文信仰 専門家は「思考と責任」の便利な外注先ではない
そうした状況こそを問題視しないといけないのに、コロナで感染症の専門家がコケても「いやいや、ウクライナ戦争の専門家は優秀だ」「統一教会問題の専門家は」「パレスチナ紛争の」……と居直り続け、同じ構図を繰り返している。そうした知の機能不全はなぜ起きるかと考えたとき、大学教員としての体験を思い出しました。 與那覇:平成以来、大学をむしばんできたのは「ダメな学際研究」でした。複数の学問分野から多くの出席者を集めても、実際には深い議論などなく、互いに「お客様」を演じるのみのムダな事業です。○○学ではそう考えるんですか、すごいですね、では次は××学の私がしゃべりますので、終わったら同じく賞賛をお願いしますみたいな。
そうしたやり方を放っておくと、「今は感染症医学の発表ターンなので、黙って拍手だけしてください」というやり方がまかり通ってしまう。それは専門家どうしが不可侵条約を結んでいるだけで、なんの知的な生産性もなく、有事においては危険ですらある。 だからむしろ、異なる分野をまたいでも「この概念を共有すれば、互いに利用しあって議論ができますよね」と。そうした言葉を増やしてゆく作業が、知性をアウトソースせずに「専門家」とつきあうためには必要だと思うんです。
■専門家に聞けば、それは正しい? 舟津:なるほど。私も似た問題意識があって、拙著にまつわることでも2つエピソードが挙げられます。1つは「モバイルプランナー」に関して、一度メディアから取材があったんです。私の知っていることを電話で話した後、先方に「ところで先生はモバイルプランナーの専門家ですか」と聞かれたんです。 與那覇:「モバイルプランナーの専門家」って(笑)。なんで大学にそんな人がいると思うかな。
舟津:そうなんですよ。困って「授業とかでは話しているんですが」と答えたら、「論文を書いていますか」と聞かれました。「いや、論文とかは書いていません」と。 與那覇:妙なところで業績重視なんですね。 舟津:だから、そうした風潮が世の中では広まってきているのだろうなと。SNSを見ると、論文バトルみたいなことをしている人たちがいますよね。 與那覇:私の昔の同業者だった、歴史学者にも多いですね。最近はSNSでは自説が劣勢で悔しいから「論破するための本を出すぜ!」みたいな、見ているこちらが恥ずかしくなるノリの人も。