「マウントを取る道具」として広まる歪な論文信仰 専門家は「思考と責任」の便利な外注先ではない
たとえば政治学者は「政治の専門家」だし、論壇誌やTVのニュース解説で活躍する著名人も多い。でも、日本の政治はどうすればよくなるかと聞かれて、「政治家や国民が、政治学者の主張に全面的に従えばいいんです」と答える人はまずいないでしょう。 舟津:そうですね。 ■恐怖や不安を専門家の権威で祓い除く 與那覇:経済学者だと、たとえば竹中平蔵さんは小泉純一郎政権(2001~2006年)で大臣を務め、大きな影響力を持ちました。でも「竹中先生は経済の専門家。だから今後ともすべておっしゃる通りにすべき」という日本人は誰もいない。むしろ逆の人が多い(笑)。
注意すべきは、TVの視聴者が「専門家に逆らうやつは許さないぞ、叩け!」となるトピックには共通点があって、恐怖や不安を掻き立てるものなんですよ。たとえばウイルスの流行であり、ウクライナで起きた現実の戦争です。いま自分が感じている「怖さ」を、専門家の権威を使って祓い除けたいとする、まさにアウトソーシングなんですね。 舟津:コロナはわかりやすい例ですね。不確実性が高すぎて、不安でもうどうしようもなくわからなくなったから、それらしい他者にすがっている。
與那覇:だから専門家の側も「自分は不安に憑りつかれた人たちの、一時的なアウトソース需要を集めているだけだよな」と、わかった上で付き合わないといけない。最悪なのはSNSでファンに囲まれるうちに全能感を抱き、異論の持ち主を「あの人は敵。さぁみんな叩いて!」のように攻撃させて、いつしか本人が素人と大差ない「議論のできない人」に堕ちてしまうパターンです。 舟津:専門家はそれを自覚しないといけない。論文やエビデンスへの需要があるように見せかけて、実は便利に使われているだけで理解もリスペクトもされていなかった、というのは本当に危険なことです。論文を書いて数値を出したところで、それは武器にしか使われないのであって、論文そのものは絶対に読んでもらえないという現実がある。