「マウントを取る道具」として広まる歪な論文信仰 専門家は「思考と責任」の便利な外注先ではない
與那覇:要は「アウトソーシングしやすい専門家」を求めているのでしょうね。「私の立場は専門家と同じだ、だから私は正しい」と思いたいし、周囲にもマウントを取りたい。だけど相手が根拠になってる本を読んで、「いや、その本には統計がないから、信じられない」と言い返してくるかもしれない。 そうしたリスクのない「パーフェクトな専門家」を演じてほしい、ただし自分にも読めるお手軽な媒体で、という欲求があるのでしょう。今いちばんアクセスしやすいメディアはネットだから、SNSの学者アカウントをフォローして「○○先生と違う主張は許さないぞ!」と、勝手に取り巻きを気どる人も出てきます。
舟津:本当に、それがますます進んでいるのが実感されて、怖いなと思っています。しかも求められる領域がマイナーなんですよね。まさに専門家中の専門家じゃないと許さないぞと問われてるような。それこそSNSでいろんなエピソードが散見されます。 ■社会問題における専門家の役割 舟津:一つの例として、「災害時にお風呂に水をためる」という慣習ってありますよね。それをある専門的な見地から、あれはダメですよ、やめましょうねと言った人がいたみたいで。それが炎上じゃないですけどSNSで論争になったときに、すごくシェアされてたポストが「専門家の意見を聞きたい。誰か、風呂に水をためる専門家を呼んできてほしい」というものでした。
與那覇:風呂の水だけを「専門」にしている学者は、どこにもいないのに(笑)。ネット上のバトルだけが意識を席巻すると、そうした切り取り方になっちゃうんですね。 舟津:それって深い意味で、いろんな専門性がありうるんです。工学なのかもしれないし、建築学かもしれないし、災害の専門家かもしれない。本来そういう社会問題は、多様な人たちが学際的に多様に語るべき話なんです。それを「水をためる専門家を出してこい」と。
與那覇:コロナが典型でしたが、国民の生活全般にかかわる重大な問題ほど、1つの分野の専門家だけでは解決できないですからね。 舟津:まさにおっしゃるとおりで、社会問題ってダイバーシティがないと解決できない。単一の専門性のみで解決できるなら、それは社会問題にすらならないでしょう。 與那覇:不思議なのは、「専門家の言うことに従え」として扱われるトピックと、逆に専門家の存在が顧みられないトピックとの乖離が著しいことです。