稲盛和夫も実践、「好きな仕事」を見つけた人が絶対にやらないこと
近くの八百屋さんに「若いのに赤字会社で深夜まで働かされてかわいそうだ。さぞかしつらいだろう」と慰めの言葉さえかけられたこともあるほどでした。 半年もたたないうちに、稲盛さんは嫌気がさして、同期入社した5人の友人と一緒に会社を辞めて自衛隊に入ろうと話をします。しかし、実家のお兄さんから「教授に紹介してもってようやく入れた会社なのに、すぐに辞めるとは何事か」と反対され、結局、書類が揃わずに、稲盛さんだけが松風工業に残ることになりました。 ここに至って稲盛さんはついに覚悟を決めました。最初は「行くところがなくなり開き直った。憂さを晴らすためにも研究に打ち込んだ。諦めをもって打ち込んだ」そうですが、打ち込んでみると専門でもないのに成果が出るようになりました。上司にも褒められ、もっと頑張ってみようという気持ちになったそうです。 ● 稲盛和夫が興味のない仕事にも モチベーションを高く保てた理由 自分の仕事に前向きに取り組むようになった稲盛さんは、自分が担当している新しい絶縁材料の開発に成功すれば、それがテレビを構成する小さな部品の1つでしかなくても、日本のエレクトロニクス産業の発展に大きく貢献できることに気が付きました。
そして、自分の仕事が社会の発展に貢献できる意義深いものだと分かると、さらにモチベーションが高まりました。あんなに嫌だった仕事が好きになって、どうしても成功させたいと強い思いを抱くようになり、自ら進んで昼夜を分かたず研究に打ち込むようになるのです。 ただ、稲盛さん自身は無機化学の知識に乏しく、社内に相談できる人もいません。そもそも、当時は日本国内で弱電用絶縁材料になるファインセラミックを研究している人は少なく、参考文献さえありません。それでも自分の仕事が好きになった稲盛さんは諦めませんでした。海外から英文の論文なども取り寄せ、それも参考にしながら研究に没頭するようになるのです。 すると、すぐにでも辞めたいと思うほど嫌だった仕事がたまらなく面白くなりました。そしてついに、当時のテレビ用ブラウン管には不可欠なフォルステライトという新しいセラミックの絶縁材料の合成に世界で2番目に成功するのです。 その素材で作った絶縁部品は、日本のテレビ産業の発展に貢献すると同時に、赤字続きの松風工業も救い、その後の京セラの成長発展の起点ともなりました。