権威主義の国が唱える「もうひとつの民主主義」は存続しうるか?
西側の民主主義も完全ではない
もちろん先進国の、いわゆる西側の民主主義の方が、より民主的なのであるが、果たしてそれが完全なものであるかということになるとそうではない。 たとえばイギリスには王室があり、いまだにカナダやオーストラリアや南アフリカなどを含む英連邦が健在である。日本には皇室があり、象徴とはいえ万世一系とされる強い文化的影響力をもつ。公平な選挙によって議員を選ぶとはいえ、実情として戦後日本はほとんど政権交代がない。これらの国は、純粋な民主主義の危険を回避する穏健な制度(=保守)を選択しているのだ。逆に韓国の民主主義は必ずといっていいほど前政権の責任者を重大な罪に問うという過激なところがある。民主主義の代表選手のようなアメリカも、トランプ前大統領支持者の議会襲撃事件や、KKK(クー・クラックス・クラン)という白人至上主義の団体も存在する。ブラック・ライブズ・マターの運動を誘発するような差別的な警察事件も続いている。つまり西側にもそれなりの「実情」があるのであって、どこの国にも完全な民主主義は存在しない。一時は、欧米先進国に比べて日本の民主主義はまだ遅れているという議論があったが、そう単純なものでもなさそうである。 そう考えれば「もうひとつの民主主義」を頭から否定するのではなく、その社会の不安定要素としての実情を認め、本来の(西側式の)民主主義への漸進的な変化を期待しながら、共存する道を探るのが妥当ではないか。
懐疑的民主主義者の断固と寛容
僕は戦後生まれで、民主的な人間だとは思うが、民主主義に絶対的な信頼を置いてきたかというとそうではなく、昔から多少の疑問を抱いていた。同世代の中ではやや保守的な人間で、友人との議論で、あるいは新聞や雑誌やテレビなどで民主主義を主張する論調に接すると「本当にそうだろうか、日本には日本特有の文化があり、社会はその文化的事情と折り合いをつけながら動かざるをえないのではないか」と感じていた。民主的な人間であっても、民主原理主義者ではなかったのだ。 いってみれば「懐疑的民主主義者」といったところだろうか。日本にはそういう人も少なくないのではないか。 しかも今の日本では、これまでの民主派ではなく、むしろその日本文化特有の事情を重視してきた保守派の方が、打って変わったように「民主主義」を称揚して、世界を民主主義国と権威主義国との二つに分けようとしているように見える。ここは冷静に、懐疑する日本に戻ることも必要ではないか。 今の世界は、民主主義の名のもとに世界を分断するのでも、民主主義を押しつけるのでもなく、民主主義というものの許容範囲を現実に合わせて考えていくことを求めている。冒頭に述べた、ロシアのウクライナ侵攻に対する非難国と制裁国の数の「落差」を考えれば、日本は、西側の一員として国家の暴力的侵略行為を許さない「断固」たる決意と、世界の一員としてもうひとつの民主主義に対する「寛容」の精神を、同時に生きる必要がある。 国の幸せは人生の幸せに似ている。人それぞれの「実情としての幸せ」があるのであって「理想としての幸せ」などは存在しない。自分についていえば、他人から押しつけられる幸せなんか大嫌いだ。