「つまらん人生でした」…戦後、子どもたちに「戦犯」と呼ばれ石を投げられた「零戦搭乗員」が晩年に語った「意外な本音」
零戦による上空哨戒の方法
その後は単冠湾出港後の、主に敵哨戒機と遭遇した場合や味方識別の方法、零戦による上空哨戒の方法などをこまごまと指示する書類が出ている。無線は封止しているから、これらは赤城から手旗信号で各艦に伝えられた。 そして12月3日、連合艦隊司令長官・山本五十六大将から麾下部隊に対し、天皇陛下に拝謁し、勅語を得たとの書類がある。これは瀬戸内海に錨泊している旗艦長門あるいは通信所から、暗号で発信されたものだろう。続いて「聯合艦隊司令長官訓示」、〈皇国の荒廃繋リテ此ノ聖戦ニ在リ 粉骨砕身各員其ノ任ヲ完ウセヨ〉の書類が続くが、進藤三郎は、 「これじゃ日本海海戦の東郷平八郎司令長官の〈皇国の荒廃此の一戦にあり 各員一層奮励努力せよ〉と変わらないじゃないかと苦笑いしました」と言い、加賀の零戦隊分隊長だった志賀淑雄大尉(のち少佐)も、「あまりの工夫のなさに思わずズッコケました。これなら東郷さんのままの文面でよかったのに」と私のインタビューに語っている。この訓示を考えたのは連合艦隊参謀長の宇垣纒少将である。 そして12月8日、真珠湾攻撃当日の天皇の勅語。前半は支那事変と米英の非望について述べているが、後半より抜粋すると、 〈朕は帝国の自存自衛と東亜永遠の平和確立との為 遂に米英両国に戦を宣するに決せり〉 とある。
真珠湾攻撃の実施
そして12月8日に真珠湾攻撃が実施される。その後の書類の日付は攻撃後になっていくが、12月9日に南雲中将から発した、部下をねぎらう訓示には、やはり日露戦争時の東郷平八郎連合艦隊司令長官の「勝って兜の緒を締めよ」を引用した〈勝ツテ兜ノ緒ヲ締メ以テ有終ノ美ヲ完ウセンコトヲ期スベシ〉との言葉がある。日露戦争でロシア・バルチック艦隊に圧勝した日本海海戦、それを指揮した東郷平八郎の影が、昭和の海軍にも生きていたのがわかる。 その後も機動部隊内の事務的な書類がいくつか続くが、12月15日の「機動部隊信令第二九號」に記された、〈特令スル迄待機戦闘機ノ兵装七・七粍全弾装備ノミトス〉は興味深い。機動部隊の帰途も、万一に備えて上空哨戒の零戦を毎日待機させていた。零戦に装備された機銃は機首に7.7ミリ機銃2挺、主翼に20ミリ機銃2挺だが、威力の大きい20ミリ機銃弾は積むな、と言っているのだ。これには理由があって、戦後、防衛庁防衛研修所戦史部が著した公刊戦記『戦史叢書』によると、生産が間に合わず、真珠湾攻撃に参加した各空母には零戦1機あたり150発の20ミリ機銃弾しか積めなかった。当時の零戦二一型には1回の出撃で片銃55発、計110発の20ミリ機銃弾が搭載される(仕様上は片銃60発だが、弾丸詰まりを防ぐため、じっさいに搭載したのは55発)。つまり真珠湾攻撃が終った時点で、1機あたり数十発しか20ミリ機銃弾が残っていなかった。――最初からこんなギリギリの準備で大戦争に突入するほど、当時の日本は(現代から見ると無謀な限りだが)追い詰められていたとも言える。