「つまらん人生でした」…戦後、子どもたちに「戦犯」と呼ばれ石を投げられた「零戦搭乗員」が晩年に語った「意外な本音」
艦爆隊の編隊の組み方や攻撃隊形
五つ目の書類は「第二次発進部隊命令抜粋及艦爆搭乗員ニ対スル注意事項覚」で、これはおそらく艦爆搭乗員に配布されたものだろう。内容はそれ以前の書類と重複するが、艦爆隊の編隊の組み方や攻撃隊形、搭載する機銃弾(機首の7.7ミリ機銃二梃に各400発、後席の旋回機銃に弾倉6個)など、より具体的な内容となっている。また、高度な機密事項である味方潜水艦の配備については〈口述〉とあり、万一撃墜されて書類が敵手に渡ることがあっても、情報が洩れないようになっている。 この書類で、やむを得ず不時着する場合はハワイ諸島西部のニイハウ島近くに救助用の味方潜水艦がいること、ニイハウ島の住民は〈全部日本人ナリ〉と書かれている。だが、結果的に言えばこのとき指定の海面に味方潜水艦はおらず、島民も日本人だけではなく先住民のほうが多かった。空戦で被弾した第二次発進部隊の飛龍零戦隊・西開地重徳一飛曹は空戦で被弾、事前の指示にしたがってニイハウ島に不時着したが、先住民に拳銃と書類を奪われ、日系二世の原田義雄に保護されて書類の奪還を試みたものの12月13日、先住民によって殺害され、原田も自決した。誤った情報が西開地一飛曹を死なせたのだ。書類には続けて、〈救助セラルル見込ナキ時ハ潔ク自爆スベシ〉とも書かれている。 六つ目の書類は「軍機」の朱印が押された「機密第二次発進部隊第三集団(注:制空隊=零戦隊)命令作第一號」で、この書類は〈第二次発進部隊第三集団指揮官 進藤三郎〉の名前で出されている。進藤大尉が率いる第二次発進部隊制空隊の発艦から帰投までの動きを丁寧に記した書類だ。見出しを列記すると、〈第一・編制〉〈第二・發艦集合法〉〈第三・隊形〉〈第四・進撃法〉〈第五・空戦〉〈第六・對地上戦〉〈第七・引揚ノ時期〉〈第八・雷爆銃撃効果ノ偵察〉〈第九・集合〉〈第十・通信〉の10項目におよぶ。
攻撃前日から当日にかけてのスケジュール
そして次のページでは「X-1日」(攻撃前日)から当日にかけてのスケジュールが記されている。機動部隊は日本時間で動いているので時差の分、感覚的にズレが生じているが、攻撃前日、つまり日本時間12月7日は20時30分総員起床、20時50分整列、21時飛行機準備開始、23時零戦13機、九九艦爆18機試運転開始、23時30分九七艦攻27機試運転、終了後爆弾、魚雷の信管装着、12月8日0時45分第一次搭乗員整列、1時30分第一次発艦、次回(第三次攻撃用)魚雷準備、1時40分第二次搭乗員整列、2時13分搭乗次第第二次発艦、5時30分頃第一次帰着・収容後第三次準備……などとなっていて、結果的に行われなかった第三次攻撃も予定に組み込まれていたことがわかる。 七つ目の書類は南雲忠一司令長官名で出された、「機密第一航空艦隊命令第一五八號」で、空母の飛行甲板上に置いた数枚の布板の形で上空哨戒中の飛行機に状況を知らせるのに使う「布板信号」が定められている。 八つ目の書類は艦長による「布哇空襲征途ニ上ルニ祭シ訓示」、なぜこのような事態になったのかを、〈米国の圧迫は皆も知る通り通商条約を廃棄し、鉄を売らず油を売らず、ABCD封鎖線を結成して日本の生命線を脅かす〉と、このままでは日本は手も足も出ずに屈服しなければならなくなる、と説く。