「つまらん人生でした」…戦後、子どもたちに「戦犯」と呼ばれ石を投げられた「零戦搭乗員」が晩年に語った「意外な本音」
隊員への禁止事項
機動部隊の内地帰還が近づいてくる。12月19日に旗艦赤城から発せられた「機動部隊信電令第二號」には、乗員たちが上陸したさい、一般人に「言っていいこと」が列記されている。 〈(イ)各自がハワイ作戦に参加せること、(ロ)オアフ島空襲に参加せること(搭乗員)、(ハ)飛行機大集団をもって敵艦隊および航空兵力を雷爆銃撃しこれを全滅せしめたること、(ニ)敵に与えたる損害(新聞発表程度)、(ホ)連合艦隊および部隊指揮官より出たる「皇国の荒廃」云々の電報および信号〉 禁止事項も併記されている。 〈禁止事項 右以外の事項特に左の事項は厳秘とすること 機動部隊の行動一切(集合地共)、(ロ)部隊編成および飛行機数、(ハ)魚雷爆弾の種別、(ニ)補給関係一切、(ホ)行動中の天候、(ヘ)敵情偵知に関する事項、(ト)他部隊特に先遣部隊に関すること〉 そして12月20日、旗艦赤城より航空母艦各艦に宛てて、23日に飛行機を発艦させ、一航戦(赤城、加賀)の零戦は大分県の佐伯基地に空輸し、24日中に山口県の岩国基地に移動させることが命じられた。他の艦上機も23日に発艦、鹿児島県の鹿屋基地または佐伯基地を経由して、24日中に岩国基地、大分県の宇佐基地に移動させることになる。 命令書の書類は「『ハワイ』作戦戦死者の葬儀ならびに遺骨遺品取扱覚書」で締めくくられている。その後のページは「気象参考(ハワイ諸島及ミッドウェイ島附近気象)」、オアフ島地図、ハワイの各米軍基地の詳細図、「諜者(スパイ)報・真珠港内施設概略」、「1941年7月1日人口表 ハワイ衛生局調 軍人は含まず」、「航空機通信関係抜粋」……と続く。「諜者報」は、「森村正」と名を変えた日本海軍のスパイ・吉川猛夫がもたらしたものだろう。
そして終戦に向けて
「人口表」によると、当時のハワイの人口は、先住民14,246人、先住民と他民族のハーフが52,445人、プエルトリコ人8,460人、白人141,627人、中国人29,237人、日本人159,534人、朝鮮人6,681人、フィリピン人52,060人、その他が849人の計495,339人で、数で言えば日本人(日系人)がいちばん多かった。 体の不調をおして真珠湾攻撃に参加した進藤三郎大尉は、帰艦するとそのまま私室にこもり、祝勝会にも出ることはできなかった。帰国し、赤城零戦隊を率いて岩国基地まで戻った進藤は呉海軍病院に赴き、そこで「航空神経症兼『カタール性』黄疸」、二週間の加療が必要と診断される。その後の進藤の戦いや戦後の生き方については、また別の主題になるだろう。 昭和20年8月15日、戦争が終ると、進藤は広島の生家に戻った。広島の街は原爆で一面の焼け野原だったが、爆心地から南東に2.8キロ離れた蓮田のなかの一軒家であった生家は、爆風で梁は「く」の字型に折れ、屋根瓦は飛び、柱も曲がっていたもののかろうじて残っていた。 ところが、戦争から帰った元軍人に対する人々の視線は冷ややかだった。 あるとき、進藤が焼け跡を歩いていると、小学校高学年とおぼしき子供たちが、 「見てみい、あいつは戦犯じゃ、戦犯が通りよる」 と、石を投げつけてきた。真珠湾攻撃のあと、帰郷した進藤に憧憬のまなざしで挙手の敬礼をした子供たちだった。