非エリート街道から世界トップ100へ。18年のプロテニス選手生活に終止符、伊藤竜馬が刻んだ開拓者魂
部活動で磨いたハングリー精神。プロ転向後に開けた新たな領域
テニスとの出会いは遅く、前述した肘のケガによる離脱すらありながらも、伊藤は小学・中学時代に全国大会で上位進出。その実績が買われ、高校は大阪の長尾谷高校に進学した。後に強豪校として知られる同校だが、伊藤が新設テニス部の一期生。創設当初から全国トップを目指すテニス部の指導法は、控え目に言って「スパルタ」だったという。 高校3年にあがる年の3月に、伊藤は全国選抜大会の個人戦で、ついに全国優勝を果たした。この大会の優勝者には、同年8月にニューヨークで開催される、全米オープンジュニア予選のワイルドカードが与えられる。そのチャンスを生かした伊藤は、予選を突破し本戦出場。ジュニアの国際大会出場機会のなかったこの時、彼は国際テニス連盟(ITF)の講習を受ける必要があった。何もかもが初めての経験で、英語も当時は話せない。そんな彼を助けてくれたのが、1歳年少の錦織圭だったという。 そんな初々しいエピソードに象徴されるように、高校時代の伊藤の主戦場は部活動であり、彼の知る世界も日本のごく狭いエリアに限られた。高校を卒業しプロ転向した当初も、リーチできるコーチや練習環境が狭く限定されたのも、致し方なかったろう。 ただ振り返ってみた時には、そのような狭い世界にいたからこそ、後に目にする景色の広大さに胸を高鳴らせ、好奇心と向上心を掻き立てられたのかもしれない。20歳の時に日本テニス協会強化メンバーに選ばれ、練習環境も接する人々も大きく変わった伊藤は、乾いたスポンジのように教えられた技術や知識を吸収していったという。 スペインのテニスアカデミー在籍経験を持つ増田健太郎コーチのもと、スペイン式ドリルの猛練習に耐え、2012年にトップ100の壁を突破。「ロンドン五輪出場」という、当時の伊藤一人では目指せなかったであろう高い目標をコーチが掲げ、背を押してくれたことで足を踏み入れた領域だった。ナショナルトレーニングセンターで練習を共にする4歳年長の添田豪が、その前年にトップ100入りする姿を間近に見たことも、「自分もできる」と信じる上で大きかったという。