なぜ“ミスターセレッソ”FW柿谷曜一朗は名古屋グランパス移籍を決断したのか?
セレッソ大阪で受け継がれてきた伝統のエースナンバー『8番』を背負う、元日本代表のFW柿谷曜一朗(30)が名古屋グランパスへ移籍することが24日、両チームから発表された。 柿谷は2018年夏にガンバ大阪から、昨夏には名古屋から移籍オファーを受けながら、いずれも熟慮した末に愛着深いセレッソへの残留を決断。来シーズンへ向けてセレッソから契約延長も提示されていたなかで、再び名古屋から届いたラブコールに一転して応えたのはなぜなのか。 セレッソを通じて発表したコメントのなかで、柿谷は小学生年代のスクールから所属してきたセレッソを「家族のようなチーム」と位置づけ、完全移籍とともに袂を分かつ率直な思いを綴っている。 「約25年間、セレッソ大阪に携わりプロサッカー選手としてもいろいろな経験をさせて頂きました。自分にとって家族のようなチームを離れるというのは寂しさもありますが長い間セレッソのためにとやってきたことに後悔も悔いもありません」(原文ママ・以下同じ) クラブ史上で最年少となる16歳でプロ契約を結んだ2006年以降で、柿谷がセレッソを離れた期間が2度ある。最初は2009年6月。練習への遅刻を繰り返し、反省の跡がまったく見られないとして、J2へ昇格して5シーズン目だった徳島ヴォルティスへ期限付き移籍させられた。 約2年半の武者修行を経て復帰した2012シーズン。スーパーサブでチャンスを生かしながら先発を射止め、最終的にチーム最多の11ゴールをあげた柿谷のもとには、オフになって独ブンデスリーガ1部のニュルンベルクからオファーが届き、柿谷自身も海外へ挑む決意をほぼ固めた。 状況を一変させたのは『8番』をエースナンバーへ昇華させた初代ミスターセレッソで、当時アンバサダーを務めていた森島寛晃氏の直訴だった。自宅へ招かれた柿谷は、空き番になっていた『8番』を継承してほしいと迫った森島氏の熱さに胸打たれて残留を決めている。 森島氏から香川真司、清武弘嗣に次ぐ4代目の『8番』となった柿谷は、2013シーズンにリーグ3位の21ゴールをマーク。翌2014年にブラジルで開催されたワールドカップに挑む、アルベルト・ザッケローニ監督に率いられる日本代表に選出された際にはこんな言葉を残している。 「セレッソの所属選手として、ワールドカップの舞台に立ちたかった」 脳裏には中学1年だった2002年6月に長居スタジアムで観戦した、日韓共催ワールドカップのチュニジア代表戦が刻まれていた。