小説家夫婦の馴れ初めとは?「結婚したら小説が書けなくなる」とプロポーズをいなす津村節子に、何度も口説き続けた吉村昭
◆口説き続けた末に 女学生の津村に対して、〈典型的な世話女房型であるという確信をいだいていた。〉(『蟹の縦ばい』中公文庫)というから、ストーカー顔負けの積極的接近は当然だったというべきか。司(長男の吉村司)は次のように証言する。 「父に言われました。結婚というのは、他の女は一切目に入らないという女性に出会ったときにするものだと。芸能人だろうが、道ですれ違った女であろうが、そんなものは一切視野に入らないというような。父は母と出会って、母しか目に入らなくなった。父の経験からの持論でしょう。結婚については、そういうすり込みがありました」 文芸部の委員長だった吉村は、いつも冗談を言って部員を笑わせていた。入学1年目にプロポーズされたときも、津村は最初冗談だと思って取り合わなかった。 結婚したら小説が書けなくなるので、一生結婚しないつもりだと津村が答えると、書けなくなるかどうか結婚してみないとわからないから、試しにしてみてはどうかと吉村は執拗に口説いた。 吉村の初期の短編『さよと僕たち』などに登場する弟の隆も、自分が結婚するかのように熱く兄の後押しをした。 結核の大手術を受けているので、吉村は「左身状態良好ナルヲモッテ治癒セシモノト認ム」という診断書も津村に送っている。肋骨を失い、大学中退で定職なしの身ゆえ、必死だったのだろう。
◆父の影響を受けた息子 晴れて1953年(昭和28年)、上野の精養軒で式を挙げた。 「司、死に水というのを知っているか? 臨終間際に、女房が自分の唇に水を含ませる行為だ。そのときに、やめてくれ、と思わないような女と結婚しろ、とも言われました」 つまり一生添い遂げても悔いのない女ということだろう。 結婚はこういうものだとすり込まれた司は、それが潜在意識にあったのかもしれない。自身の結婚は31歳のときだった。 相手の女性が通勤で使う駅で始発から待ち伏せ、いきなり腕をとって「結婚しよう」とプロポーズした。 意を決したら、果敢にアタックする。それも吉村の影響だという。 ※本稿は、『吉村昭と津村節子――波瀾万丈おしどり夫婦』(新潮社)の一部を再編集したものです
谷口桂子