小説家夫婦の馴れ初めとは?「結婚したら小説が書けなくなる」とプロポーズをいなす津村節子に、何度も口説き続けた吉村昭
◆思い込んだら一直線の吉村 一方の、ベタ惚れされた津村の側に立つと、どうなるか。 〈夫の求婚の強引さは、今思い出してもくたびれてしまう。ここと思えば、又あちら、というように行く先々に現われて、これは到底逃げられぬと覚悟し、小説を書かせてくれることを条件に結婚した。〉(「別冊文藝春秋」昭和51年9月号) 今で言えば、ストーカーだと疑われるのではないかと案じてしまう。一生を懸けようとした小説と同じように、思い込んだら一直線だったのか。 異性に対して、吉村は決しておくてではなかったようだ。 〈少年時代から現在まで、女性を見る時、この女(ひと)と結婚したらどうなるか、と思うのが常である。つまり結婚相手として好ましいかどうかが、女性の価値判断になる。 少年時代から、ということを妻はおかしがり、ずいぶんませた少年だったのね、と笑う。〉(『縁起のいい客』文春文庫) 東京の下町・日暮里生まれの吉村は、五歳のときから映画館に通い、映画監督を夢見たこともあった。スクリーンに映る映画女優を見ても、お嫁さんにしたらどうだろうと想像をふくらませた。
◆ひと目みて結婚を意識 結婚相手には理想とする一つの像があった。世話女房であるということだ。 〈世話女房という言葉は、男にとって実に快いひびきを持つ言葉だ。東京の下町に生れた私は、隣近所で、よく世話女房といわれている奥さんを目にした。いそいそと主人の身の回りに心を配り、亭主も頑是(がんぜ)ない子供のようにそれに身をまかせている姿を目にして幼心にもああいう人をお嫁さんにしたいな、とませたことを思ったりしたものだ。〉(『蟹の縦ばい』中公文庫) この女と結婚したらという空想の中で、世話女房型かどうかを見定める癖があったようだ。 では、そういう女性と出会えたかというと、ある時期まで一人もいなかった。一生独身かも知れないと思っていたところ、めぐり合ったのが津村だった。 学習院大学の文芸部に入部するため、部室に入ってきた津村をひと目見て、 〈「大人びた女だなあ。こういうのと結婚したらいいかもしれない」〉(「週刊文春」平成12年1月20日号)と思ったことを明かしている。 出会いは1951年(昭和26年)で、吉村は24歳、津村は23歳。吉村は結核を患(わずら)い、左の肋骨五本を切除する胸郭成形術を受けるなどして、大学の入学が遅れた。一方の津村も、短期大学に入学するまでは自立を目指してドレスメーカー女学院に通い、疎開先の埼玉県入間川町(現狭山市)で洋裁店を開くなどしていた。 互いにまわり道をしたからこそ出会った千載一遇の縁だった。