「私は白です」乱れる筆致、そして意思疎通はかなわなくなった 無実の訴え届かず死刑確定、袴田さんがつづった数千枚の獄中書簡
▽両親との死別 獄中の袴田さんにとって、心の支えは両親やきょうだいの存在だった。 「今朝方母さんの夢を見ました。元気でした。夢のように元気でおられたら私はうれしいがお母さん、遠からず真実を立証して帰りますからね」(1969年10月4日) しかし、母親は静岡地裁の死刑判決から約2カ月後に他界していた。父親も1969年春にこの世を去った。 「私の拘留中昭和四十三年(1968年)母からの便りが突然途絶えた。私は、この時自分の人生で最も悲しい時が迫るを感じ体中一気に凍るような衝撃を受けた。(略)真実は誰にも否むことは出来ないのである。原審の誤った裁判が私の両親の生命を奪い且、その死水をも私に取らせなかったのだ。この時から私の生を支えるものは憎悪に成ったのだ」(1974年5月10日) 前向きな言葉を重ねてきた袴田さんの書簡に、次第に捜査機関や司法制度への強い怒りがつづられるようになる。
「取調べ当時、私の健康状態は極めて悪く、この状態をして、へいきで法を犯す捜査陣の中にあっては、私自身の生命をも守ることが困難であったのだ。(略)私は天地神明に誓って本件の真犯人ではない。(略)法を犯した捜査陣は、当審で全敗するだろう。万一敗訴。私の脳裏にはすぐさま生と死への二つの姿が浮かび上がり、ごく短い時間の間を私は私なりに苦しく、切なく思いなやむのである」(1975年12月15日) ▽悪魔の手先が電波を… 1969年5月、東京高裁で始まった控訴審では、5点の衣類のうち、ズボンが袴田さんには小さく、はけないことが判明した。袴田さんの弁護団らは、5点の衣類は捏造された証拠だと訴えたが、1976年5月18日、高裁は袴田さんの控訴を棄却。その後、最高裁も高裁の判断を支持し、1980年12月に死刑が確定した。1980年代後半の書簡には、意味の通らない内容が見られるようになり、獄中で始めたペン習字で鍛えた美しい字も乱れていった。