「私は白です」乱れる筆致、そして意思疎通はかなわなくなった 無実の訴え届かず死刑確定、袴田さんがつづった数千枚の獄中書簡
1966年11月15日、静岡地裁で開かれた初公判で、袴田さんは自白をひるがえし「私は全然やっておりません」と全面的に起訴内容を否認。家族に宛てた手紙にも、無罪判決獲得への強い意欲を記した。(かっこ内は手紙やはがきの日付) 「皆様と敢(アワ)無くなって半年、お代りありませんか。私も元気でおります。私のことで親類縁者にまで心配かけてすみません。××味噌の事件には真実関係ありません。私は白です」(1967年1月ごろ) 「私しは裁判所には無罪が解って頂けると信じています。我れ敗くることなし」(静岡地裁の初公判後、時期不明) 「検事は自供調書と言っているが、調書は獄問による物で真実生がありません。検事が言うような、事実はありません。考えて見は、今僕は生死が賭かかって居る訳ですから。真剣に考えて法廷に出たと思う」(静岡地裁の初公判後、時期不明) ▽5点の衣類 事件から約1年2カ月後の1967年8月31日、裁判は急展開した。みそ工場にあったみそタンクから、大量の血痕が付着したスポーツシャツやズボン、白色半袖シャツ、ステテコ、ブリーフの「5点の衣類」が見つかった。
検察は公判開始時、袴田さんがパジャマを着て事件を起こしたと指摘していたが、5点の衣類が犯行の着衣であるとの主張に変えた。それでも、袴田さんの意欲は衰えなかった。 「去る13日に、ご存知の通り急に公判が開らかれた。(略)あの血染の着衣が絶対に僕の物ではないと言う証拠は、ネームがない事です。僕の着衣はクリーニング屋に出すのでハカマタと入っています」(1967年9月ごろ) 「裁判所が事実を見あやまらないかぎり、私は無罪と確信しつつ、七月十八日の判決を待つこの頃」(地裁判決前、時期不明) しかし、袴田さんや家族の願いは届かなかった。静岡地裁は1968年9月11日、自白調書45通のうち、任意性を欠いているとして検察官調書1通以外を証拠から排除しながらも、5点の衣類は袴田さんのものだとして、死刑を言い渡した。 「意外ナ判決結果デ事実誤認モ著シイノデ即座ニ控訴致シマシタ」(地裁判決後、時期不明)