「私は白です」乱れる筆致、そして意思疎通はかなわなくなった 無実の訴え届かず死刑確定、袴田さんがつづった数千枚の獄中書簡
「悪魔の手先は本日一日、左耳と左手に集中的に電波を当てて文章活動の妨害を図っている」(1989年1月5日) この手紙を出してすぐ、同じ静岡県で1954年に6歳女児が殺害された「島田事件」で死刑が確定した赤堀政夫さんが、再審無罪を勝ち取った。この朗報は袴田さんの耳にも入った。 「島田事件の再審無罪は全国民にとって予想されていたことですが、イザ無罪判決が大々的に報道されてみますと、誤判の長すぎた現実に愕然とさせられると同時に怒りを禁じ得ません」(1989年2月2日) 袴田さんの弁護団も裁判やり直しを求め、再審を請求したが、うまくいかない日々が続いた。1991年を過ぎ、袴田さんからの発信は次第に途絶えがちになり、拘置所での食事や入浴、姉ひで子さんとの面会を拒否するようになった。家族は時折届く意味の通らないはがきを頼りに、袴田さんを案じるほかなかった。 ▽釈放も戻らぬ心、忍び寄る衰え
2014年3月14日、2度目の再審請求で、静岡地裁は再審開始を認め、袴田さんの釈放を決めた。袴田さんは長年過ごした東京拘置所を出たが、「裁判は終わった」「袴田巌はもういない」などと口にし、意味のあるやりとりは難しくなっていた。ひで子さんと浜松市で同居を始めたものの、長年の拘置所生活の影響か、電気をつけたままでなければ寝られず、家中を歩き回った。支援者とともに散歩するなどして、ゆっくりと回復しているが、近年は高齢に伴う体力の衰えも目立つ。 検察側の不服申し立てにより、裁判やり直しは10年近くずれ込み、2023年10月27日、ようやく再審公判が始まった。拘禁症状が残る袴田さんの出廷は免除され、ひで子さんが補佐人として代わりに法廷に赴いた。検察側はなお有罪を主張し、死刑を求刑。今年5月22日の結審の日、証言台に立ったひで子さんは、死刑確定後に袴田さんが息子に宛てて書いた手紙を読み上げた。 「息子よ、お前はまだ小さい。判ってくれるかチャンの気持ちを。もちろんわかりはしないだろう。判からないと知りつつ声の限りに叫びたい衝動に駆られてならない。そして、胸いっぱいになった、真の怒りをぶちまけたい。チャンが悪い警察官に狙われて逮捕された。昭和41年8月18日その時刻は、夜明けであった。お前はお婆さんに見守られて眠っていたはずだ」(1982年11月28日)