「誰にも看取られたくない」貴乃花光司50歳が明かした“不審続き”の人生
快進撃は続いた。1992年1月場所で19歳5カ月の史上最年少優勝。テレビの平均視聴率は40.3%(関東地区)を記録し、優勝パレードには8万人を超えるファンが押し寄せた。初優勝から1年後には20歳5カ月で大関に昇進。これを機に、四股名を父と同じ貴ノ花に改める。 「背負うべきものを背負わせていただいたという気持ちがありました。また、プレッシャーを力として自分の体にどう蓄えていけるかといった葛藤が始まりました。大関になってから、もう一つ上にいかなきゃといった芽生えがあったんだと思います」 大関昇進伝達式が行われた日は、婚約解消の会見が開かれた日でもあった。 「いいことがあればそうでないことも重なると、これまでの人生でつくづく感じます。大きな騒動となり、困惑を通り越して、何やっているんだろうな俺って感じでした。渦の中から泳ぎ出そうとしても、一向に出られない。町を歩いていて、知らない一般女性から罵倒されることが何度もありました。自分はそれだけのことをしたんだ、これも背負っていこうと考えました。そのときにも、土俵というふるさとが存在してくれていて助かった気がします。何を言われても、ここでさえ這い上がればという感じでした」
鬼の形相の一番は「棺おけにまでもっていける」
父が果たせなかった横綱という地位。1994年9月場所で初の全勝優勝を果たしたが、横綱審議委員会によって昇進は見送られた。この判断を不服としなかったどころか、四股名を貴乃花に改めて臨んだ翌11月場所で再度全勝優勝を成し遂げ、22歳3カ月で横綱昇進を決めた。 「横綱として初日の土俵に上がったときに、これでいつでも辞められると思いました。生意気な言い方をすれば、もう役目を果たしたと」 横綱となった1995年は、年6回の本場所中4回の優勝、翌96年は4場所連続優勝をするなど圧倒的な強さを見せた。最後の優勝は、2001年5月場所の千秋楽。膝の大ケガを押して出場していた貴乃花は、本割で武蔵丸にあっさりと敗れ、同星の優勝決定戦に臨む。もうダメだろうと誰もがあきらめるなか、巨漢の武蔵丸を豪快な上手投げで土俵にたたきつけ、“鬼の形相”を見せたのだった。小泉純一郎元首相が表彰式で「痛みに耐えてよく頑張った。感動した!」と絶叫した相撲史に残る一番をどう振り返るのか。 「当時、武蔵丸さんは全盛期。一方、私は人生の岐路に立つような切羽詰まった状態でしたが、お互いに横綱としてあの思い出の一番ができた。私としても、棺おけにまでもっていける一番です。あのとき休場していたら、たぶん気持ちが萎えて、もっと早く辞めていたと思います」