ホームランを「捨てた」三冠王──WBC初代世界一の4番・松中信彦の「フォア・ザ・チーム」の精神
第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で4番を務めたのは、ダイエー、ソフトバンクで活躍した平成唯一の三冠王・松中信彦だった。あえてホームランを「捨て」、チーム打撃に徹し打率.433。ホームランは1本もなかった。「つなぐ4番」は王貞治監督の掲げた「スモールベースボール」を貫いて、初代世界一に大きく貢献した。8日に開幕が迫るWBCを前に、令和の三冠王・村上宗隆への思い、3大会ぶり世界一へのカギを聞いた。(取材・文:田口礼/撮影:上田章博/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)※敬称略
決勝をたぐり寄せた“気迫のヘッドスライディング”
メキシコとの国境に近い、サンディエゴ。市街地にあるパドレスの本拠地で行われた韓国との準決勝は、異様な空気に包まれていた。この大会で韓国との戦いは3度目。日本は屈辱の連敗を喫し、もう、負けは許されない。6回まで互いのスコアボードに「0」が並ぶ緊迫した展開のなか、松中信彦は7回表の先頭打者として打席に向かった。 韓国が秘密兵器として招集した左腕・全炳斗(チョン・ビョンドゥ)の4球目だった。右翼線に鋭い打球を放つと、二塁へ頭から突っ込む。ヘルメットが脱げるほどの激しいヘッドスライディングを決め、左の拳で思い切りベースをたたいた。 「チームの士気が高まればいいと思った」 松中が形にした気迫は、ゲームの流れを変える。1死から代打起用されたのは福留孝介。ここまで19打数2安打と不振だった男が、決勝アーチを夜空にかけた。この大会で松中が演じたのは「主役」ではない。この夜のユニホームと同様に泥にまみれてはいるが、欠かすことのできない「脇役」だった。
左手に感じた衝撃、ホームランを捨てたホームラン王
2006年の第1回大会は、自チームの監督である王貞治が率い、「王ジャパン」と呼ばれた。すっかり定着した「侍ジャパン」の呼称ができたのは第2回大会からである。当初、4番候補はヤンキース・松井秀喜だったが、辞退。松中にとっては、思わぬ形で巡ってきた「代役」だった。 最初は逆風だった。04年、05年とパ・リーグのプレーオフで極度の打撃不振に陥り、敗退の要因となっていた松中に対しては「なぜ、短期決戦に打てない打者を入れる?」と公然と批判する野球解説者の声も耳に入った。 「それを聞いて奮い立った。覆したいと思ったし、絶対に優勝したかった」 心に火のついた松中は驚きの決断をすることになる。東京での1次リーグを勝ち抜き、アメリカでの2次リーグへ。その間にあったメジャーリーグのチームとの練習試合で、松中は初めてメジャーの投手と対戦した。 「真芯でとらえたと思ってもセンターオーバーの打球が限界だった。左手に感じた衝撃は、ものすごかった。自分の打ち方ではホームランにするのは難しいと」