「誰にも看取られたくない」貴乃花光司50歳が明かした“不審続き”の人生
「フラッシュの光に恐れをなした」入門の日
本格的に相撲に打ち込んだのは中学生からだったが、力士になる決意を固めたのは中学3年生のとき。「中学横綱」の個人タイトルを狙っていた大会の東京都予選で敗退したのだ。悔しさからやる気に火がついた。 「あの負けがなかったら、力士にはなっていなかったと思います。こんなふうに先生たちの期待を裏切って、自分の人生終われないなって。恩師は入門に大反対でしたし、両親は寝耳に水といった状態でした」 父は入門を「1週間考えさせろ」と言った。1週間後の第一声は「おまえはほかの部屋へ預ける」。これが角界入りの条件だった。しかし、紆余曲折あり、兄(のちの三代目若乃花)と一緒に父が親方を務める藤島部屋への入門が決まった。兄弟が3階の自宅から2階の相撲部屋へ引っ越しをした日は、マスコミが殺到した。 「フラッシュの光のすごさに恐れをなしました。ジャージ姿の名もない子どもが、階段を下りて修業部屋に入るというだけのことなんですが。報道の威力はすごいと思いました」 父と子の関係は、この日を境に親方と弟子に変わった。120キロで入門した体重は90キロまで落ちた。土俵以外に居場所はない。朝4時から稽古し、トイレでも腕立て伏せをして体を鍛え上げていった。 「ふるさとが消滅した。そんな気持ちでホームシックになり、1カ月くらいは布団の中でシクシク泣いていたと思います。先代の指導は“かわいがり”を超えたような厳しさで、みんなが常に師弟の間柄でかわいがられている状態でした」
20歳の婚約解消を語る
貴花田の四股名で1988年3月に初土俵を踏んだ後は、最年少記録を次々と塗り替えた。17歳2カ月で新十両に昇進。17歳8カ月で新入幕を果たした。世間の注目を一身に浴びる日々だったが、心に残る青春の1ページがあると語る。 「17歳の頃に、人目を気にせずデートできたことが一度だけありました。本当に短い時間でしたけれども、私にとっては生涯続く青春です。今も心の支えですね。それがあるから、少々のことがあっても耐えられたような気がします」 世間は「若貴フィーバー」に沸いていた。私生活でも連日カメラに追い回される日々。「私が求めた修業の世界観とはかけ離れていて、報道の威力に恐ろしさを感じました」と、ここでもやはりマスコミの怖さを実感している。 入門から3年。世代交代を印象づけた横綱千代の富士戦は、今も大相撲ファンの間で語り草となっている。18歳9カ月で初金星を挙げた一番をこう回顧する。 「周りの騒ぎ方が半端じゃなくて、ひょっとしたら千代の富士さんのほうが緊張されていたような気がします。私は胸をお借りするつもりで、偶然勝ちにつながったんです。先代から『あの状況で緊張しないでやれるなんて、おまえは変わったやつだな』と言われたように記憶しています」