大惨事の記憶を忘れない! 大分市の最新「道の駅」に「レトロ電車」が保存されたワケ
電車が保存されたもうひとつの理由
さてたのうららに路面電車が保存された理由は、単に「かつての線路跡に近い場所」というだけではない。ここに電車が保存されたもうひとつの理由は、この地が別大電車にとって忘れることができない大災害 「別大電車仏崎埋没事故」 が起きた場所であるからだ。 1961(昭和36)年10月26日、集中豪雨により大分県内各地で浸水が発生。学校や企業は「半ドン(午後休)」となったところが多かった。そのため、別大電車は午後の授業を取り止めた学校に通う児童・生徒や、通常より早く帰ろうとする社会人たちで満員となっていた。 14時52分頃、軌道横の仏崎の崖が崩落。運悪く別府方面(亀川駅前)へと向かう205号電車が通りかかり、多くの別府市民が巻き込まれた。雨が降り続いていたため救助は難航、最終的には ・死者:31人 ・重軽傷者:38人 ※運転士・車掌を含む という大惨事に至った。当日、別大電車沿線の別府市浜脇でも27戸が浸水・流出したほか、翌日には別大電車両郡橋電停近くを走っていた国鉄日豊本線の準急「ゆのか」も土砂崩れに巻き込まれている。 事故後、仏崎には仰々しい落石ガードが設けられ(現在のものは1973年頃に設置された2代目)、またその別府寄りには事故で亡くなった人を弔うためのお地蔵さまが鎮座した。
電車廃止後の渋滞問題
別大電車崩落事故は今から半世紀以上も前の出来事ではあるものの、筆者(若杉優貴、商業地理学者)がたのうららに訪問したときにも電車の座席に座って 「あんとき○○(親戚と思われる)が1本後ん電車に乗っちょってな、やけん助かったんちゃ」 という話をしている人がいたほどで、あの当時を生きた別府市民にとってはいまだに忘れることができない大きな出来事なのだ。 かつては景勝地として知られた仏崎だが、別府市在住の高齢者は今も電車事故のことを連想する人が少なくない。もしこの事故がなければ、たのうららの駅名も 「道の駅ほとけざき」 になっていたかもしれない。 片側1車線しかなかった別大国道は次第に混雑が激しくなり、道路の拡幅のため大分県の要請を受けて別大電車は1972(昭和47)年4月4日に廃止された。電車の廃止によって別大国道は1978年に片側2車線化(4車線化)が完成したものの、通行量の増加はいちじるしく、朝には渋滞が発生するようになった。また、別大電車埋没事故以降も悪天候時には通行止めとなることが度々あった。 そのため、2012(平成24)年には沖合の埋め立てなどにより6車線化が完成。この拡幅では、別府湾沿い側に大波を緩和するフレア護岸が採用されたほか、山際を走っていた道路の大部分が海沿いに移設されるなど、防災面にも力が入れられた。