耳の聴こえない母の喋り方を笑われてしまった日
ろうの両親の元に生まれ「コーダ(聴こえる子ども)」として育った、作家でありエッセイストである五十嵐大さん。小さな港町で家族に愛され健やかに育つも、やがて自分が世間からは「障害者の子」と見られていることに気づき──。誰も知らない場所でふつうに生きたいと、逃げるように向かった東京で五十嵐さんが知った本当の幸せとは? 『ぼくが生きてる、ふたつの世界』から一部を抜粋して紹介します。 ※画像はイメージです
生まれつき耳が聴こえない母は、音を知らない。そのため、日本語をうまく発音することができない。よく勘違いされるのだけれど、聴覚障害者は発声ができないわけではない。面白いことがあれば声を立てて笑うし、驚いた瞬間には大きな悲鳴もあげる。手話で会話をしていても、喉の奥から唸るような声を出すこともある。ただし、その発音が聴者とは異なるため、変に聞こえてしまうことがある。 でも、それが“変”だとは知らなかった。 小学三年生になり、初めてのクラス替えがあった。ひとりっ子で甘やかされて育ったぼくは、とても引っ込み思案で恥ずかしがり屋の子どもだったため、うまく友達をつくることができなかった。だから、せっかく仲良くなったクラスメイトたちと離れ離れになってしまうことが怖かった。 そんなとき、母はいつも「大丈夫だよ」と背中を押してくれた。揃えた右手の指先を左胸に当て、それをゆっくり右胸へと動かす。これが「大丈夫」という意味の手話だ。 不安になっていると、母はこの手話を見せてくれる。ぼくもそれを真似る。この「大丈夫」は、合言葉になっていた。 母に応援されたおかげもあり、新しいクラスでも何人かの友達をつくることができた。そのうちのひとり、Yくんとは特に仲良しだった。ぼくとは異なりとても活発なタイプで、ドッジボールが得意なクラスの人気者。そんなYくんに憧れを抱いていたし、地味で大人しいぼくと仲良くしてくれていることがとてもうれしかった。 ある日の帰り道、一緒に帰っていたYくんが唐突に言った。 「今日、大ちゃんちに遊びに行ってもいい?」 Yくんにそんなことを言われると思っていなかったので突然のことに驚きつつも、喜んで頷いた。 「うん! 大丈夫!」 「じゃあ、うちに寄ってランドセル置いてから行こう!」 自宅までの道を、Yくんとはしゃぎながら歩いた。最近買ったゲームの話でひとしきり盛り上がり、一緒にプレイすることになった。近所の子たちと遊ぶことはあっても、少し離れた場所に住む子と遊ぶのは初めてだったため、若干緊張する。それでも、夕飯の時間までたっぷり遊べることが堪らなくうれしくて仕方なかった。