信長、秀吉、家康がこぞって利用した干し柿の王様「堂上蜂屋柿」。信長はポルトガルの宣教師に振る舞い、家康は関ヶ原合戦前に…
農林水産省が実施した「作況調査(果樹)」によると、令和4年産果樹の結果樹面積は16万6,000haで、15年前と比べて4万4,200ha減少したそうです。近年の経済不況も手伝って、果物が食卓に並ぶ機会が少なくなっていますが、技術士(農業部門)で品種ナビゲーターの竹下大学さんは「日本の果物は世界で類を見ないほど高品質。それゆえ<日本の歴史>にも影響を及ぼしてきた」と語っています。そこで今回は、竹下さんの著書『日本の果物はすごい-戦国から現代、世を動かした魅惑の味わい』から「堂上蜂屋柿」についてご紹介します。 【写真】「本場の本物」に認定されている堂上蜂屋柿 * * * * * * * ◆干柿のブランドナンバーワン「堂上蜂屋柿」 干柿のブランドとしては「堂上蜂屋」が一番だ。貫禄たっぷりな見た目もそれを後押ししている。 堂上蜂屋柿は、縦長で大きく果肉が緻密で種子が少ないうえに、大きい果実のわりに水分が少ない特徴がある。そのため干柿にした際の重さは、ふつうの干柿の約2倍にもなる。「堂上」とは、朝廷への昇殿を許されたという意味だ。 1188年(文治4年)、蜂谷甚太夫がこの干柿を源頼朝に献上した際に、頼朝から蜂蜜の甘みがあると賞賛され、村とカキに蜂屋の名を給わったとの伝説が残る。それまでは「志摩」という地名で呼ばれていたとされる。 蜂屋村は中山道太田宿のすぐ北に位置した。岐阜県美濃加茂市蜂屋町上蜂屋(かみはちや)にある瑞林寺(ずいりんじ)は、文明年間(1469~87)に創建された。 瑞林寺を創建した仁済(じんさい)和尚は、室町幕府第10代将軍足利義稙(よしたね)に蜂屋柿を献上したと伝えられている。このとき、義稙は瑞林寺を柿寺と名づけてもいる。
◆信長、秀吉、家康がこぞって利用した堂上蜂屋柿 干柿は平安時代に朝廷への献上品となり、以来天皇や歴代将軍に献呈され続けた。「堂上蜂屋」の場合は、室町時代の足利将軍から、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康にいたるまでだ。理由は品質が抜きんでていたからに違いない。もちろんブランドという点でもだ。 信長、秀吉、家康の3人が3人とも、それぞれ重要な場面で干柿を用いている。 信長は、茶席でポルトガルの宣教師ルイス・フロイスに箱入りの蜂屋柿をふるまった。 キリスト教布教を許可する允許状(いんきょじょう)を京で与えられたお礼のために、1569年(永禄12年)にフロイスが岐阜城に参上したときである。 フロイスは自著『日本史』に美濃(現岐阜県南部)の干しイチジクと記載しているが、イチジクは日本には存在しなかったし、逆にカキはヨーロッパに存在しなかったため、干柿の間違いだとされる。美濃産とくれば、堂上蜂屋柿であった可能性は高い。
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