信長、秀吉、家康がこぞって利用した干し柿の王様「堂上蜂屋柿」。信長はポルトガルの宣教師に振る舞い、家康は関ヶ原合戦前に…
◆諸役免除、年貢米の軽減まで 秀吉は、蜂屋村に諸役免除の特典を与えている。 1597年(慶長2年)12月には、朝鮮から戻った毛利輝元を伏見城の奥座敷に招き慰労した。その際に、秀吉は当時5歳の秀頼から輝元にのし柿を与え、輝元は大感激したと伝えられる。 のし柿とは、干柿をのしたものであろう。輝元は3本の矢で知られる毛利元就の孫だ。 その後秀吉は、徳川家康、前田利家、小早川隆景、宇喜多秀家とともに、毛利輝元を五大老に定め、秀頼の後見役に任じた。 1600年9月、家康は大垣城(おおがきじょう)にたてこもる石田三成らの西軍を討つべく出陣。 岐阜城から美濃赤坂への行軍途中、墨俣(すのまた)宿で瑞林寺の江国和尚が村民とともに大きな蜂屋柿を家康に献上したと伝えられている。時は関ヶ原の戦いの前日であった。 家康は「早速大がき手に入る吉兆」と大いに喜び、諸役免除継続を約束したと伝えられる。 天下取りを果たした家康はさらに、1605年に蜂屋村を御菓子場に指定してお役御免とし、諸役免除に加えて年貢米を軽減した。
◆処刑直前に石田三成が発した名言 豊臣秀頼からのし柿を与えられ大感激した毛利輝元であったが、西軍総大将として関ヶ原の合戦に参戦すべく大坂城に入ったにもかかわらず、出陣することはなかった。石田三成の参戦要請にも応じなかったのである。理由は秀頼を守るためだったとも言われる。 石田三成も干柿好きで知られる人物だ。『茗話記(めいわき)』と『明良洪範(めいりょうこうはん)』に次のような干柿のエピソードを残している。 捕らえられた三成は、二条城の北側にあった京都所司代に監禁された。1600年(慶長5年)9月28日に市中引き回し、10月1日に京都六条河原で処刑されて首は三条河原に晒されている。 この処刑直前に、喉の渇きを覚えた光成が白湯を求めたときの話である。 警固の者が白湯は手に入れづらいので代わりに持っていた干柿を勧めたところ、三成はカキは痰の毒だからと断った。これを聞いた警固の者は、もうすぐ首をはねられる者がそんなことを気にするなどと大笑い。 当の三成はというと、大義を思う者は首をはねられる瞬間まで命を大切にして、何としてでも本意を達しようと思うものだ、と彼に言い返したのだそうだ。 ※本稿は、『日本の果物はすごい-戦国から現代、世を動かした魅惑の味わい』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
竹下大学
【関連記事】
- ペリー来航の際、昼食で90品を超えるフルコースに登場した果物は…日本人にもっとも親しみのある果物の歴史を辿る
- 見た目がそっくりな「スダチ」と「カボス」、「ユズ」が父親の2種は何が違う?近年では魚の養殖にも使われる柑橘の歴史を解説
- 『光る君へ』怨霊に取り憑かれた人が呻き、化粧ボロボロの女房を見て紫式部は「言いようもなくワクワク」と。そして母・倫子は喜びのあまり…中宮彰子<出産のウラ側>
- お客様第一の経営では、業績は向上しない?期待に応えても、水準が引き上げられて…そのしわ寄せが行き着く先とは
- 『光る君へ』中宮彰子が自らを「若紫」に重ねたようにまひろが「空蝉」、あの一夜が「夕顔」などモチーフとなる『源氏物語』。では<物語のラスボス>あの生霊は…