【証言・北方領土】水晶島と国後島・元島民 佐藤健夫さん(2)
母と国後島へ
―国後のお祖父さんが死去され、お祖母さんが一人になったので、お母さんが兄弟数名を連れて国後に行った? 小学校2年生ですね。 ―記憶は? あります。はい。3年生の10月の末に脱出してますからね。だから、(国後島に滞在していたのは)2年間弱なんだけど、やっぱりその時代は、もう、懐かしいっていうか、いろいろ思い出ありますね。 ―水晶島から国後島までは直行便? 根室が中心地だからね、根室、水晶島、根室、国後、根室、択捉って、こう船は、定期船走ってたようですから、だから、水晶島から一旦根室に行って、そこでとまってっていうかね、そっから乗りかえて国後行ったと思いますね。 ―そのとき、国後に行くのは初めてですか? はい。 国後から、じいさん、ばあさんが遊びに来た、水晶島に来たことは記憶あります。じいさんが亡くなる前だね。すぐ、来て間もなく亡くなったから、最後に会いに来たんでないかなと、今思うと、思ってますけどね。 ―お祖父さんの記憶は? そうですね、あんまりね、そんなに。ばあさんとは長く一緒に暮らしたから思い出はあるんですけど、じいさんは国後にずっといたからね。僕が生まれたのが水晶島だから、1回か2回しか来てないから、思い出って言われてもね、一緒に寝て、どっぷり寝小便かけたっていう記憶はあるんですよ。もう寝小便はね、得意だったら、もう怒られるけどね。 ただ、じいさんは、やっぱり優しかったっていうかね、国後で、やっぱり多いときは60頭ぐらい馬を飼ってたんですね。最後、死ぬ前に、自分はもう先がないっていうことで処分して、6頭だけ残したんですよ。それは男の兄弟3人いたから、2頭ずつ残してくれたんですね。それをね、世話して、かわいがってたっていう記憶ありますね。 ―お祖父さんは馬の事業もやってたのですか? そうなんですね。木材製造、それから、昆布、それから、馬もですね。だから、そのほか何かやってたような、店もやったっていう、一時期ね、聞いてますけど、やり手だったんでしょうね。だから、土地、その乾場、昆布を干す場所もね、10カ所ぐらいの、そっちこっちに土地を持ってる人等そんなに多くなかったようだけど。だから、島帰ったら、結構土地があることになるんですけど、まだ手続はしてませんですけど。 ―島に行って、そこまで事業を拡大させるのは凄い。 そうですね。大したもんだと思います。 ―佐藤さんは国後の学校に編入したのですか? はい。