伝説の古着屋・Hanjiro(ハンジロー)の軌跡:元商品企画部マネージャー高山亨さんが語るその裏側
「デプラスモンの時代から大型店舗で販売するスタイルで運営していました。 最近では原宿でも見かけるようになりましたが、スーパーマーケットのように買い物かごを持って古着を選ぶという、古着屋の大型店舗の先駆けはハンジローだったと思います」 また古着屋として、世界初のPOSシステムを導入。全てにおいて前衛的なスタイルだった。 そして、ハンジロー独自の挨拶もよく覚えている。 「いらっしゃいませ、こんにちはー! ありがとうございました! ぜひ、またお越しくださーい!」古着屋とは思えない、この気持ちのいい挨拶が記憶に残っている読者もいるだろう。 スタッフのひとりが大きな声で言うと、続けて皆が挨拶をするのはデプラスモン時代から続いているハンジローの伝統だ。 「社長とか上層部の人たちが、今までの古着屋のイメージをガラッと変えたかったのだと思います。スタッフ同士の会話も、休憩や飲み会も全部敬語でした(笑)」 そんな東北キッズにカルト的な人気があった「デプラスモン」は話題を呼び、「デプラスモン・トーキョー」として、東京の原宿に進出することになった。 そのような背景の中、「デプラスモン・トーキョー」の人気はさらに拡大。その後、いよいよ1999年の4月に『ハンジロー・セントラル』として、リュニーアルオープンすることになった。
東京進出とともに、全国展開! 人気が爆発した背景
ハンジローの特徴でもある店舗の広さは盛岡店で100坪以上、原宿パレフランス店で370坪は優にあった。原宿パレフランスが老朽化で取り壊しになった後は、YMスクウェア原宿に移転したが、全盛期のハンジローはどのくらい店舗数があったのだろうか。 「東京に進出してからは、店舗がさらに増えて、一番多いときには20店舗以上ありました。東京都内だけでも6店舗はありましたね。京都、大阪、奈良、名古屋、広島、福岡、新潟、仙台、札幌…と一気に店舗が増えました。東北以北では、東北と北海道で合わせて3店舗ぐらいありました」 高山さんは、高校生の頃からファクトリーに通い詰め、最初は盛岡店のアルバイトスタッフとして働き始めた。高山さんの清々しい大きな掛け声は、社長の耳にまでよく届き、パレフランスでのオープンが決まったときは、高山さんが声をかけられることになった。