伝説の“名勝負”で振り返る新日本プロレス「1・4」東京ドーム大会…34年続く“伝統行事”のルーツを探る
〈1・4新日本東京ドーム、ギネスに挑戦〉という見出しがスポーツ紙に踊ったことがあった。2005年10月に出たこの記事は、新日本プロレスが毎年主催する1月4日の東京ドーム大会が、翌年で15年連続開催となるにあたり、「同一日ドーム大会開催」の記録として、ギネスワールドレコーズ社(イギリス)に申請しようというものだった。 【写真を見る】「お正月には欠かせない男」と実況された猪木ほか「1・4」を盛り上げてきた伝説のレスラーたち
残念ながらこの時は見送られたようだが、それから20年、実に34年連続開催となる、「1・4」東京ドーム大会が2025年もおこなわれる。まさにギネス級の記録である本ビッグイベントの歴史を、秘話も含め振り返りたい。
東京ドーム大会の歴史
新日本プロレスが最初に東京ドーム大会をおこなったのは、1989(平成元)年4月24日だったが、実はこの時、開催希望日として同年の1月3日が上がっていた。大会の目玉は前年11月に提携に成功したソ連(現ロシア)レスラーの大量デビューだったが、新しもの好きのアントニオ猪木が、開業間もない東京ドーム大会開催を要望し、本人の口から出た希望日が1月3日だったのだ。 しかし、当日は既に氷室京介のコンサートが入っており、このプランは幻に。しかも、3月まで予約が満杯だった。そこで4月24日となったのだが、この日は月曜日。プロ野球が開幕していることから、試合のない日を利用するしかなかった。 以降、90年は2月10日(土)、91年は3月21日(木、春分の日)と、毎年おこなわれて来た新日本プロレスの東京ドーム大会だが、1992年の開催から、日付が1月4日に定着する。 「プロ野球日程の影響を受けずに済むのはもちろん、元旦から続く、サッカー、ラグビー、駅伝という、スポーツのビッグイベントの続きとして、プロレスを位置づける意図もあった」 とは、当時の新日本プロレス首脳の弁である。 初の「1・4」当日は、年明けらしい趣向が満載。先ず花道で獅子舞が舞うと、日の丸を掲げた新日本選手団が入場し、「君が代」を斉唱。試合開始前ながら景気付けか、「1、2、3、ダー!」も行われた(※音頭は欠場中だった佐々木健介。なお、猪木は第9試合に出場。馳浩に勝利している)。 そして、特別編成の多い正月らしく、生中継でのテレビ特番も実現。試合開始は午後3時からだったが、午後6時から1時間半枠で放映され、これは「1・4」史上、唯一の地上波生中継となっている。ただ、メインである藤波vs長州の序盤で放送が終了してしまったことも、その一因かも知れない。その後の「1・4」は、即日放映されることはあっても全て録画中継となっている。 以降、新日本プロレス「1・4」東京ドーム大会は定着。それは、プロレスの歴史そのものとなっていく。