伝説の“名勝負”で振り返る新日本プロレス「1・4」東京ドーム大会…34年続く“伝統行事”のルーツを探る
総合格闘技との“闘い”
1990年代は、崩壊や分裂により、更に多団体となった業界を示すかのように、「対抗戦」が1つの柱となった。長州vs天龍(WAR/1993年)、猪木vs天龍(1994年)、武藤敬司vs高田延彦(UWFインターナショナル。1996年。前年10月の再戦)、大日本プロレスとの対抗戦(1997年)などが挙げられるが、特に97年は売上的にも新日本の最盛期といえるが、新日本プロレス7代目社長だった手塚要さん(※2013~16年まで同職)に筆者が取材したところ、その理由をこう語っていた。 「この時期、会場に足を運んでいたファンは、子供の頃にゴールデンタイムでプロレスを観ていた世代だったんです」 そして、時を同じくして、競合相手が徐々に隆盛し始めて行く。それは、PRIDEに代表される総合格闘技であり、主催する大規模な大晦日興行に、新日本プロレスの選手も出場。僅か4日後に行われる「1・4」も、少なからず影響を受けることに。 ミルコ・クロコップ戦での完敗からメインを張らねばならなかった永田裕志(2002年。秋山準に惜敗)、アレクセイ・イグナショフ戦での鼻骨骨折の負傷を負ったままIWGPヘビー級選手権を戦わねばならなかった中邑真輔(2004年)。なお、この合間の2003年の「1・4」のメインは永田vsジョシュ・バーネット(※バーネットはこれがプロレスのデビュー戦)であり、2004年の「1・4」テレビ特番のタイトルは「プロレス界の大逆襲!」。総合格闘技人気を新日本が意識し過ぎていた感もあった。
新日本プロレス自体も、2000年代前半は主力選手の退団が相次いだ。しかし、01年には前年11月に解雇した橋本真也を呼び戻し(vs長州力)、同じく03年には小島聡を、04年には武藤敬司を、それぞれ全日本プロレスから出場させている(※2人は02年に新日本から全日本プロレスに移籍していた)。この時、出場を快諾した武藤に対し、新日本サイドは、それまで自分たちが持っていた「ザ・グレート・ムタ」の商標権を廃棄すると同時に、(新日本時代の)ムタのコスチュームを武藤にプレゼントしている。 確実に客を呼べる選手を出場させる――数万人規模の観客動員が求められるドーム興行の難しさが浮き彫りになった。2007年には1月4日(木)から、1月9日(火)への日程変更案も出たほどだったが、「1・4」は堅守。ただし、動員面から、2階席は閉鎖となった。 その2階席が、当日券のみながら復活したのが2009年(翌年には前売り券も復活)。現社長である棚橋弘至ら、レスラーたちのファンを大切にする姿勢が実を結び、12年より親会社がブシロード体制になってからは人気が復活。19年より22年までは1月4日、5日と、東京ドーム大会の2連戦が実現している。